実際にあった事件を描いた同名のノンフィクション作品を基にした映画は、院内の事故や事件を不問にしようとする病院の隠蔽体質を糾弾している。が、作品の眼目は、タイトルが示す通り、善なる者が悪とどう対峙するかを物語っているところだ。
悪を崩すには尋問や恫喝、処罰、暴力では足りない。悪の中にあるはずの、微かな善を悪に気づかせることだ。
だが、それで悪が崩れ、幾多の院内殺人を白状したとしても、悪はその動機を語らない。なぜ、そんなことをしたのか。見る者は当然、その理由を知りたい。自分で納得できるような動機を知らなければ、その疑問は物語が終わっても、いつまでも見る者の中に残り続けるからだ。
映画が作られ始めたのは2021年である。今、世界で起きている何かを示唆したものではない。それでも、動機がわからないままのモヤモヤした気分が筆者にはさまざまなことを考えさせる。
人はなぜ、凶行へと突き進むのか
悪の動機が理解しやすいものだったら、私たちはどんな反応をするだろう。
例えば、今年7月に起きた安倍晋三元首相殺害に対する多くの人々の声だ。「あの人のお陰で、あの宗教と自民党の癒着が明るみに出た。私たちはあの人に感謝すべきですよ」。こんな声を良識派と呼ばれる80代の人から筆者は聞いた。
だが、同じ境涯の人がみな人殺しをするのか。どのような成果があったとしても、どんなに立派な動機があったとしても、殺人は悪だろう。裁く側が情状を酌むとしても。
では、ロシアのプーチン大統領が指揮するウクライナ侵攻はどうか。当初から病気説が出ているように、私たちは彼がなぜ「軍事作戦」に踏み切ったのか、真の動機がわかるようでわからない。彼の言葉であれこれ説明されても、納得できない人がいかに多いか。
戦後、米国人をはじめ世界の多くの人々が、「戦争を終わらせるため」という原爆投下の米国側の対外的な言い分に頷いた。だが、その理由はどうやら真実ではないと、仮にそれが理由だとしても、原爆使用が悪であることに変わりはないと、投下から77年がすぎた今、世界の多くの人が気づき始めている。
理由はどうあれ、悪は悪なのだ。いや、悪には理由も動機もないのかもしれない。それが言い過ぎだとしたら、理由なき悪というものもある。