映画の中で悪の真意は明かされない。それは見る者たちが推し量るか、考えるしかないことだと、言いたいかのように。
動機がわかれば、悪を止められるのか
小説は2度読んで初めてその意味がわかる。同じように、映画も繰り返し見ることでわかることがある。
映画に現れる悪の表情をつぶさに、繊細に見入ることで見る者はその動機を知ることができるだろうか。
クレプトマニア(窃盗症)の初老の男が知人の家に招かれ、銀のスプーンを一つ、ついポケットに入れてしまう。そこに深い動機はないのかもしれない。あるいは、彼はそのスプーンがないことに気づいた知人の反応を想像することでなんらかの快感を得るのか。
映画の中の悪は、自分の仕業で人が死に至る、その瞬間を見ることに倒錯的な興奮を覚え、強迫観念のようにその悪事を止めることができなかったのか。
そんなことを筆者は想像したが、それは筆者がひとり思っていることにすぎない。
言葉にできるような理由は何もない。悪とはそういうものかもしれない。悪があからさまに広がる今という時代、この映画はそんなことを考えさせた。