2024年4月26日(金)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年1月19日

軍縮と近代化という
相反する要求に直面した陸軍

 機械戦・化学戦となった第一次世界大戦は、その惨禍の点でも過去の戦争とは一線を画するものになった。被害があまりに甚大だったため正確な戦没者数の算定は困難だが、一説では日露戦争の100倍、実に1600万人以上(民間人含む)に上った。都市や民間施設も攻撃対象となり、非戦闘員の被害も甚大であった。

 そのため戦争が終わったとき、多くの人々が戦争を憎み平和を賛美したことは自然な成り行きであった。人々は戦争の原因を勢力均衡原則に基づく軍拡競争に見出した。1920年には初の国際的集団安全保障機構である国際連盟が設立された。その連盟規約では、加盟国は軍備を「国の安全と国際義務」を履行しうる「最低限度」まで縮小すること、連盟理事会は軍縮案を作成して加盟国に提示すべきことが定められた。軍縮は大戦後の国際潮流となった。

 直接的な戦火に晒されなかった日本国内も、こうした国際潮流から無縁ではなかった。折からの戦後不況も相まって、軍縮を求める世論が興隆した。帝国議会では軍備縮小を求める決議案・建議案が相次いで提出され可決された。

 すなわち、陸軍が装備近代化に乗り出そうとしたその時、国民世論・政党はむしろ軍備縮小を求め、陸軍は凄まじい逆風に曝されることになるのである。

 軍縮と近代化という相反する要求に直面した陸軍がたどり着いた解決策が、兵員数を縮小することで予算を捻出し、これを近代化に転用するという財源自弁方式の近代化であった。

 1922~23(大正11~12)年、山梨半造陸軍大臣の下で実施された近代化政策が「山梨軍縮」である。陸軍は5個師団分に相当する人員約6万人、軍馬約1万3000頭の削減を実行する。しかし、政党勢力の激しい軍縮圧力に直面し、捻出予算の大半を国庫に返納することを余儀なくされてしまう。最終的に近代化に転用できた額は当初の期待を大きく下回るものであった。

 陸軍内では微温的な近代化に失望の声が上がった。他方、政党勢力も山梨軍縮に満足しなかった。山梨軍縮が5個師団分の人馬を削減しながら、師団数そのものには手を付けなかったからである。

 山梨が師団数維持にこだわったのは、同時期に上原勇作参謀総長の下で参謀本部が策定していた『大正十二年帝国国防方針』との整合性を取るためであった。同『国防方針』は所要兵力として戦時40個師団の整備を求めていた。当時の動員方式ではこれは平時21個師団を維持することを意味する。この時、陸軍では第一次世界大戦中に宿願の2個師団増設(連載第2回『悪名高き「統帥権独立」とは何だったのか 対立深まる軍と政党』参照)を実現し、平時21個師団体制を確立していた。

 したがって国防方針の所要兵力と整合性を取るためには、現有師団数を削減するわけにはいかなかったのである。有事の際、人員の増員は比較的容易であるが、師団の増設は政治的にも技術的にも遥かに困難であるからだ(換言すれば、だからこそ政党は師団の削減を求めたのである)。

 かくして山梨軍縮は、近代化の面でも軍縮の面でも、共に不徹底、中途半端との印象を与えることになってしまった。


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