2024年11月23日(土)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年1月19日

 こうして山梨軍縮の直後から、さらなる改革を求める声が陸軍と政党の双方から上がることになる。特に1923年に上原が参謀総長職を辞すと、参謀本部内では『国防方針』に拘泥せず、思い切って師団数の削減に踏み込むべきではないかとする近代化案も出現する。この参謀本部案を基礎に、山梨の後を受けた宇垣一成陸軍大臣が実行した軍縮が「宇垣軍縮」(1925年)である。

画期的な「政軍協調路線」の成立

 宇垣軍縮は4個師団を削減して平時17個師団まで縮小することで経費を節減し、その捻出予算の大半を近代化に転用しようとするものであった。陸軍自らが師団削減に踏み込んだことは画期的なことであり、宇垣の巧みな政界交渉術とも相まって、加藤高明内閣(憲政会・政友会・革新倶楽部連立内閣)は捻出予算の大半を近代化に転用することを承認した。

 この結果、陸軍では航空部隊を既存の16個中隊から一躍、26個中隊に拡張したのをはじめ、それまで実質保有していなかった戦車部隊と高射砲(対空砲)部隊を新設するなど、画期的な近代化を実現することになる。

 宇垣軍縮において、陸軍は率先して4個師団を削減することで政党に配慮した。政党も節減予算の近代化への転用を認めることで陸軍に配慮した。相互の自己抑制による協調が宇垣軍縮成功の鍵であった。それは2個師団増設問題以来、対立を繰り返してきた政党と陸軍の間に「政軍協調路線」という新関係を築くことになる。陸軍は政党との対立ではなく協調によって自己利益を拡大する術を学び、政党による国政運営を受け入れていくのである。

 そして「政軍協調路線」の中心にあり、象徴する存在こそ宇垣一成であった。宇垣の陸軍内での声望は高まり、政党勢力内でも次期党首や首相候補者として名前が取りざたされるようになる。「宇垣時代」の幕開けである。

政軍関係の安定が改革を阻む皮肉

 大正期の政軍関係を律することになる「政軍協調路線」は、しかし思わぬ副作用をもたらすことになる。政軍関係を律する制度改革の停滞である。

 さかのぼること10数年前の1913年、第一次山本権兵衛内閣は政友会の強い要求を受け、「軍部大臣現役武官制」を単なる「軍部大臣武官制」に改正し、予備・後備役の大・中将でも陸海軍大臣に就任しうる道を開いた。軍部が大臣人事を利用して内閣に政策を強要することを防ごうとしたのである(連載第2回参照)。そしてこの制度改正後も、政党や世論の改革要求は止まず、さらに改革を進めて「軍部大臣文官制」の導入や参謀本部廃止を求めていた。

 しかし、制度改革の実現性は「宇垣時代」に入るとともに急速に遠のくことになる。「宇垣時代」は「大正デモクラシー」期とも称される政党政治の最盛期であった。男子普通選挙法が成立し、議会では政友会と憲政会(民政党)の二大政党制が確立する。

 外形的には制度改革の好機であったこの時期に、むしろ改革が遠のいたのはなぜだろうか。


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