2024年4月20日(土)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年1月19日

 その原因は皮肉なことに「政軍協調路線」にあった。宇垣軍縮がそうであったように、宇垣は政党政治に積極的にコミットした。それは単に政策的に政党内閣に協力するというだけには止まらなかった。1927年、宇垣が陸相を務めていた第一次若槻礼次郎内閣(憲政会)が瓦解し、予備役陸軍大将の田中義一(政友会)に組閣の大命が降下した。田中は宇垣に陸相留任を求めたが、このかつての上官の懇請を宇垣は拒絶してしまう。

 それは、政党政治の時代にあって政権が交代したならば、軍部大臣といえども政党政治の論理に則って出処進退を決せねばならない、すなわち憲政会内閣の一員であった自分が政友会内閣に留任することは政党政治の論理にもとる、と宇垣が考えたからであった。

 宇垣の行動は冷徹な政治計算の上に成り立っていた。当時の軍人の例に漏れず、宇垣自身は統帥権独立制度の信奉者であった。軍部大臣文官制や参謀本部廃止論には絶対反対であり、むしろ現役制の復活を望んでいた。しかしだからこそ、制度的特権を守るためには、特権下でも軍部が政党政治に順応できることを示し、制度改革の動機を抑制しなくてはならないと考えたのである。

 しかもこの論理は、政党内閣内における宇垣の政治的立場を強化するものでもあった。陸軍が内閣から制度的に独立した状況下で、政府が陸軍をコントロールしようとすれば、必然的に政党内閣に協力的な宇垣の力に頼らざるを得ない。結果として政府は宇垣の嫌う制度改革に踏み込むことができなくなるし、その他の問題でも宇垣の意向には最大限の配慮を払わざるを得なくなる。

 この論理の効果は絶大であった。政権獲得後、憲政会(民政党)内閣は軍部大臣任用資格の改正に極めて消極的となった。また現行制度で認められているはずの予備・後備役軍人を軍部大臣に抜擢することもなかった。そのため単なる武官制の下でも、軍部大臣には現役軍人が就任することが当然の慣習として定着することになる。

 本来、政党の政治力が最大化し、対して軍部の威信が相対的に低下していた「大正デモクラシー期」こそ、さらなる制度改革や制度の実際上の適用(予備・後備役からの大臣抜擢)を実行する最大のチャンスだったはずである。皮肉なことに「政軍協調路線」がその実現を阻んだのである。

結果的に陸軍を「変容」させた宇垣軍縮

 「宇垣時代」はしかし間もなく終焉を迎えることになる。原因の一つは「宇垣時代」の幕開けを飾ったはずの軍縮政策への失望だった。

 宇垣軍縮は陸軍に大きな犠牲を強いるものであった。4個師団削減により多くのポストが失われ、余剰となった将校は職を失った。軍隊に残れた者も毎年の定期異動の度に馘首(解雇)の恐怖に苛まれることになる。当時、師団隷下の歩兵連隊・騎兵連隊には天皇から軍旗が親授され、所属将兵のプライドとアイデンティティの源泉であった。その連隊が廃止されて軍旗を奉還しなければならなくなったとき、軍人が受けた衝撃の大きさは現代人にはなかなか想像しにくい。


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