寺内はしどろもどろ。「速記録をごらんください」と繰り返すのが精いっぱいだったが、浜田はすでに決められた登壇3回におよび、夕刻に至ったこともあって、いったん矛を収めた。
浜田の気迫、舌鋒は、すさまじいというほかはない。この目で見たかったと思うのは筆者だけではなかろう。いまの国会では絶対に見ることのできない光景だ。
「寺内さんはかんかんになってぶるぶる震えている。浜田さんはまるで、子供をあやすようにやるんですね。議場はもう大拍手でした」――。
議席で対決の一部始終を見ていた星島二郎代議士(のち衆院議長)の回想だ。(『証言 私の昭和史②』テレビ東京編、学芸書林)。
浜田は明治維新の年、1868年生まれ。政友会代議士として、このとき当選12回。議長もつとめた長老。一方の寺内は1918(大正7)年の米騒動で退陣を余儀なくされた元帥、寺内正毅首相の長男だ。
議場では劣勢を強いられた寺内は、散会後に態度を豹変させ、政党を懲らしめるために衆院の解散を要求した。軍部の陰険な凶暴さがうかがえる。
広田は予算案の成立など懸案を抱えていたため、解散に消極的で、議会を停会にして冷却期間とし、永野修身海相が寺内の説得に乗り出したが不調に終わった。寺内は単独辞職をほのめかして抵抗した。
事ここに至って、広田は閣内不一致で総辞職を決めた。
あっさり退陣を決意したのは、前年の二・二六事件で前内閣が倒れた後、半ば無理やり引っ張り出された経緯があるため、宰相の地位に未練がなかったともいう。「自ら計らわぬ」生き方をしてきた広田らしい潔さだった。
これが戦前の腹切り問答の経緯だ。
小西氏―高市氏の辞職論争は売り言葉に買い言葉
総務省の「内部文書」をめぐる高市経済安保担当相と立憲民主党の小西洋之参院議員との辞職をめぐるやりとりに話を移す。そもそもの経緯は、すでに大きく報じられているのでそちらに譲る。
小西・高市論争は、3月3日の参院予算委員会で交わされた。小西氏が、放送法の中立性をめぐる「総務省の内部文書」を示し、安倍晋三元首相と、当時総務相だった高市氏との電話でのやり取りが収められていると追及した。
高市氏は「放送法について安倍総理と打ち合わせをしたことはない。まったくの捏造と考えている」と文書の信ぴょう性を真っ向から否定した。
小西氏が、「捏造でなかったなら、大臣、議員を辞職することでいいか」と畳みかけると、「結構ですよ」と不快感を露骨に表した口調で応じた。
まるで子どものけんかのようなやりとりだったが、それはともかくとして、驚くのは、議員の進退が、いとも簡単に議論されたことだ。