2024年11月24日(日)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2023年4月17日

世界に示し始めた習近平の権威

 3月の全人代以降、習政権は活発な外交活動を展開する。

 3月中旬のウクライナの和平提案や国際安全保障案を軸とする「対外政策」的文書の発表を皮切りに、習国家主席発議によるサウジアラビアとイランとの両国関係復活(3月10日、中国で発表)、習国家主席のロシア訪問(3月20~22日)、中米ホンジュラスとの国交樹立(3月26日)、習国家主席とサウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマーン皇太子の電話会談による大規模経済交流の実現(3月28日)、ウクライナのゼレンスキー大統領による習国家主席のウクライナ訪問要請の公表(3月28日)、馬英九台湾前総統の訪中(3月27日~4月7日)、林芳正外務大臣訪中(4月1~2日)、さらには訪中したマクロン仏大統領に対する厚遇対応(4月6~8日)まで。

 このように3月から4月初旬にかけての動きを列記しただけでも、個々の外交活動の狙いはともあれ、それらが究極的には中国包囲網を軸に対中強硬姿勢を強める一方の米国への対抗策に収斂することは誰の目にも明らかだろう。まさに全ての標的はワシントンへ、であろう。そこで思い浮かぶのが「赶美(米国に追い付け、追い越せ)」の2文字である。

 1958年、毛沢東は社会主義国家を一気に建設すべく半ば現実を無視し、強引に「大躍進政策」を打ちだしたが、その際、全土に「超英赶美」の大号令を掛けた。当時、一国の鉄鋼生産量が経済力であると見なしていたと思われる毛沢東は、世界第2位の鉄鋼生産量を持つ英国を超え(「超英」)、首位の米国を凌駕すること(「赶美」)を目指した。

 それと言うのも、世界のトップクラスの経済力を手に入れることで目の上のタンコブであったソ連を押しのけ、超大国アメリカに肉薄し、やや大袈裟に表現するなら「毛沢東の中国が担うべき世界史的使命」を誇示することを狙ったわけだ。

 中国は胡錦濤政権末期の2010年、実質国内総生産(GDP)で日本を抜き去って世界第2位の経済大国に躍進した。「超英」ではないが、「超日」を実現させたことで毛沢東の見果てぬ夢の一部を実現させたのであった。

 であるなら次は〝我が手〟で「赶美」の達成をと、習国家主席が野望を抱いたとしても強ち不思議ではないだろう。なにせ彼は毛沢東を神と崇めて育った世代――この世代を筆者は「完全毛沢東世代」と名付ける――のトップランナーなのだ。

政権中枢の多くは「毛沢東世代」

 ここで改めて習家班について考えてみたい。

 それは、昨年秋の第20回共産党全国大会を経て3月の全人代で確定した習近平政権3期目の中核――首相の李強(1959年生)を筆頭に、全人代常務委員長の趙楽際(1957年生)、政治協商会議主席の王滬寧(1956年生)、中央書記書常務書記の蔡奇(1955年生)、国務院副総理の丁薛祥(1962年生)、中央規律検査委員会書記の李希(1956年生)など。いわば習国家主席(総書記)を戴く側近集団の別名である。

 彼らは共に幼少期から10代半ばの多感な時期を文革(1966~76年)の渦中に過ごし、毛沢東思想という培養器のなかで思想的に純粋培養されたていたわけだから、心の奥底に毛沢東信仰が深く刻まれていたとしても不思議ではない。ならば後に「大後退の10年」と否定された文革であったとしても、やはり彼らにとっては「わが青春に悔いなし」であるはずだ。


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