当然ながら先住民の反乱は絶えず、現地の民衆が武装蜂起するも、あえなく敗れ、この地は1899年、英・エジプトの共同統治下(condominium)とされ、呼び名は英エジプト領スーダンとなった。支配下にあるエジプトに間接統治させる英国の植民地であり、これが1956年の独立まで続く。
植民地時代も統治はなされず
英国はスーダン人を教え導くというより、植民地エジプトの準州として、管理から何から「丸投げ」したようなものだ。
大英帝国は19世紀後半、日本にも軍艦を送り込んだように、アジア、アフリカでの領土拡大に躍起になる。南アフリカのダイアモンド発見を機にアフリカに一気に乗り込み、英国勢の大立者、セシル・ローズの呼びかけなどを機に、大陸を南から北まで手中に収め資源を奪う野望を抱いた。
といっても、綿密な植民地政策がなされたわけではない。スーダンに関して言えば、アフリカ最大のこの領土を地図上で「国」に見立てたにすぎず、国の統一を指導したわけでも、行政、教育を十分に整備し、統治を育んだわけでもない。
大英帝国がスーダンを欲しがったのは、エジプト、特に1875年建設のスエズ運河の管理を独占したいがために、エジプトのすぐ背後にいるスーダンを押さえておきたかったという独善が大きい。アフリカを手中にしたいフランスへの牽制もあった。
第2次大戦後、アジア、中東と同様、エジプトでは反帝国主義、反植民地主義が民衆に広がり、英国との不平等条約に反発したエジプトは自ら王政を廃し、1953年に独立する。その結果、英エジプトの共同統治下にあったスーダンも56年に独立することになる。
その際の国の英名はRepublic of the Sudan(スーダン共和国)だが、国名には珍しい冠詞、the が付けられている。実はそれがこの国を象徴している。
スーダンとはもともとアラビア語の表現、「bilād al-sūdān」から来た言葉で、厳密には黒人を、意訳すれば黒人の土地を指す。固有名詞ではないため、そこにあえて冠詞を入れているわけだ。たとえば隣のコンゴ民主共和国の場合、コンゴは民族名、つまり固有名詞のため冠詞はいらない。
独立前の歴史からもわかる通り、エジプトなどアラブ世界から見るスーダンは「黒人奴隷を捕獲する土地」であり、国家というより地域というニュアンスがある。
エジプトのナセル元大統領は60年代、アフリカの内陸で革命を起こそうとしたチェ・ゲバラに、そこにはcivilian(市民)はいないから無理だと諭した。反帝国主義の英雄だったナセルにも、国を形作る民はいないとみなされていたのだ。
独立後も続いたさまざまな対立
独立後のスーダンは、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国の中でも最悪と言っていいほどの歴史を辿る。
単純な二項対立は禁物だが、あえて試みれば、南対北、非アラブ対アラブ、キリスト教徒・土着宗教対イスラム、西の旧ダルフール王朝対首都ハルツームのなど、この地にはもともと対立の要素がいくつもある。それを「国家」として、しかもアフリカ最大の土地で統治するのは、至難の技どころではない。
英国は統治時代、首都ハルツームなど北部を中心に管轄したが、1946年に突如方針を変え、南部(のちの南スーダン)を北と同じ政庁下に置いた。南部の公用語は英語からアラビア語に替わり、国の行政ポスト200の大半を北部勢に占めさせ、南部には4席しか与えなかった。
これを遠因に独立前年の55年には南部ゲリラの反乱が強まり、北部の政府は約束していた連邦制を反故にし、南北対立の内戦が、軍のクーデターや民の反乱を挟んで72年まで17年間も続いた。
2度目の内戦が始まる85年までが平和の時代かと言えば、そうではない。第1次内戦下、ソ連から大量の武器が流入し、76年ごろからは米国からの武器援助が増え、レーガン政権下にはスエズ運河に近い要衝、北部のポート・スーダンに米空軍基地が置かれた。
国内に武器が出回る中、84年に始まる飢饉、85年のイスラム法制定を機に南部住民の反発が高まり、89年に独裁的なバシール政権が生まれるものの、内戦は治らず、バシールが住民デモをきっかけに追放される2019年まで続く。
内戦下の03年、西部のダルフール地方でゲリラ勢の反乱が起き、水や土地をめぐり政府軍・アラブ系民兵との衝突が続く。06年に和平合意が成立したが争いは続き、推定で約30万人が死亡し、約200万人が難民・避難民化した。
同じ内戦下、1955年以来、反政府闘争を続けてきた南部は11年に南スーダンとして独立したが、累計戦戦死数は200万人を超えた。