2023年12月8日(金)

食の安全 常識・非常識

2023年6月29日

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松永和紀 (まつなが・わき)

科学ジャーナリスト

1963年生まれ。89年、京都大学大学院農学研究科修士課程修了(農芸化学専攻)。毎日新聞社に記者として10年間勤めたのち、フリーの科学ジャーナリストに。主な著書は『踊る「食の安全」 農薬から見える日本の食卓』(家の光協会)、『食の安全と環境 「気分のエコ」にはだまされない』(日本評論社)、『効かない健康食品 危ない天然・自然』(光文社新書)など。『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』(同)で科学ジャーナリスト賞受賞。2021年7月より内閣府食品安全委員会委員(非常勤、リスクコミュニケーション担当)。(記事の内容は、所属する組織の見解を示すものではなく、ジャーナリスト個人としての意見に基づきます)

カドミウム以外の性質は、コシヒカリと同じ

 コシヒカリ環1号の生育や収量、コメの粒の外観や食味、病気や冷害への耐性なども育成地での栽培試験で細かく調べられており、元のコシヒカリとほとんど違いがありませんでした。その内容は論文として公開され、品種登録にあたってもデータとして国に提出されています。

中央左がコシヒカリ環1号、右がコシヒカリ。草姿に違いはない(農研機構提供)

  OsNRAMP5以外の遺伝子、DNA配列の解析も行われています。データがまだ公表されていないため詳しくは書けませんが、私は説明を聞き、ほかの遺伝子などへの影響の少なさに驚きました。局所的に変異を起こさせる、というイオンビーム照射による育種の特徴が、見事に活かされました。

 ちなみに、1塩基が欠損するような変異は、自然の紫外線や放射線などによって普通に起きています。たとえば、現在栽培されている各地のコシヒカリを遺伝子解析すると、微妙に異なります。コシヒカリは品種登録されてから67年が経っており、各地で栽培されている間に自然の突然変異が起きているのです。しかし、安全上の懸念は生じておらず、だれも変異を気にしていません。

 イネは通常、自治体の農業試験場がその地域にあった品種を開発し農家が栽培を始めます。コシヒカリ環1号は、茨城県つくば市内にある農研機構の開発品種なので、自治体の農業試験場は栽培試験を繰り返して、その地域に導入してよいかどうか判断することになります。

 自分たちの品種と交配して、コシヒカリ環1号が持つ「カドミウムを吸収しづらい性質」を導入しようとするところもあります。その一つが「あきたこまちR」。秋田県が開発し、25年度には従来の「あきたこまち」から切り替えるよう準備を進めています。

秋田県の農家出身の科学者の使命

 私が、このコシヒカリ環1号の開発の話を最初に聞いたのはもう10年以上前です。12年には、米国科学アカデミーが発行する「The Proceedings of the National Academy of Sciences 」(PNAS)に論文が掲載されました。この学術誌は、自然科学系のさまざまな論文が世界から投稿される著名誌であり、日本の農学者の論文が掲載されることはめったにありません。

 コメのカドミウム問題は日本のみならず、コメを主食とするアジア全体の課題です。カドミウムをほとんど吸収しないイネがイオンビーム育種ででき、遺伝子が解析されたというのは、世界的に貴重な研究成果でした。

 私は科学ジャーナリストなので、多くの研究を取材します。時々、運命的、神がかり、とも思えるような研究成果に出くわします。私にとって、このコシヒカリ環1号はその際たるものでした。

 たった1塩基の変異がこれほど大きな性質の変化をもたらす。自然の不思議を感じます。OsNRAMP5以外の遺伝子への影響が非常に少なく、性質が変わっていないというのも見事。でも、なるほど、と思いました。PNAS論文の第一執筆者となった石川覚さんは、秋田県の農家の出身なのです。

秋田県の農家出身で、コシヒカリ環1号の開発を手がけた石川覚さん(筆者撮影)

 秋田県も鉱山が多く、明治からの日本の近代化を支えてきた一方、カドミウム濃度の高い地域が一部ありました。農村で育った石川さんは幼い頃、しばしば、客土のために土を積んで走るダンプカーを見かけました。石川家の田んぼも客土が行われました。

 石川さんも子どもの頃、おそらくカドミウムの高いコメを食べていたでしょう。石川さんの父親によれば、客土前のコメの方がおいしく収量も高かったとのこと。先祖代々守り培ってきた土を失い、ほかの土に入れ替えなければならない。そのつらさはおそらく、食べるだけの都会の人間にはわかりません。

 加えて、客土前に食べていたコメのカドミウムへの心配は消えません。摂取したカドミウムは長く人体に残るからです。石川さんも時に、自分の健康が不安になるそうです。

 その石川さんだからこそ、カドミウムをほぼ吸収しない突然変異を運命的に引き寄せたのではないでしょうか?

 もちろん、運命だけでは新品種には至りません。先ほど、2592個体をポットで1個体ずつ栽培、とさらっと書きましたが、たいへんな作業です。ほかにも多数の栽培試験や分析などが石川さんやほかの多くの科学者、研究所職員によって行われ、結果の一部は学術論文としても公表され、新品種につながりました。

 石川さんは話します。「02年に研究所に入った時から、コメにおけるカドミウム対策の研究を続けてきました。カドミウム汚染に苦しむ農家に生まれた私の使命です。コメのカドミウムをゼロにしたい、という強い気持ちが、コシヒカリ環1号につながった、と思えてなりません」。

無機ヒ素低減にも役立つ

 コシヒカリ環1号には実はもう一つ、大きな可能性があります。コメの無機ヒ素対策がしやすくなるかもしれません。


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