とにかく、概念が入った子どもには「生活実感ごっこ」は検算的な確認でよく、どんどん次の概念に進ませるべきだ。鶴亀算などは、一次連立方程式を先に入れておいて、こんな解法もあるということを余談で触れる程度で良い。農耕や調理などのスキルと同様に、連立方程式は人類の知恵であり、子どもにこれを隠しておいて鶴亀算に余計な時間を浪費するのは間違っている。
問題は小学1年生から中学3年生までの重要な9年間において、一切の差をつけずに横並びのカリキュラムとしているということだ。そして、学年ごとに内容の上限が規制され、その上限は「学習困難な子ども」でも対応できるという基準で設定されている。
そのためカリキュラムでは「生活実感ごっこ」に長時間を空費しており、近年の教科書ではそれが極端になっている。しかも「生活実感ごっこ」に付き合わせるためには妙なこともやっている。
例えば、「1袋3つのミカンが入った袋が4袋あると全部でミカンは12個になる」という「実感」を叩き込む際には、3×4=12は正解だが、4×3=12は誤答だというような「珍奇な指導」が横行することになるのだ。既に乗法の概念の入っている子どもには虐待である。
とにかく数学はスポーツと同じで、到達度別に指導しなくてはいけない。グローブが使えない子どもにいきなり硬球の捕球をさせればケガをする。息継ぎのできない子どもを背の立たないプールに放り込めば命の危険もある。同様に、どうしても乗法の概念の入らない子どもには、生活実感のストーリーや物理的なモノを与えて理解まで到達させてもらえる権利がある。
反対に、乗法の概念が入っている子どもには、その先に進む権利がある。こうした到達度別の指導をことごとく潰してきたのは日教組であり、現在の日本の少子化も、競争力低下による貧困の問題も、その大きな責任は彼らにあるし、これに迎合した文部科学省にもあるとも言える。
難問奇問は何も生まない
5つ目の問題は入学試験である。中高にしても、大学にしても「出題範囲の上限規制」は厳しい一方で、その限られた範囲の中で難問奇問を用意して受験生を悩ませるというのは、果たして有効なのかという問題がある。
特に、塾が横行している現代では、出題者が折角考えた難問奇問も「類似の問題に触れた」ことのある子どもが有利で、触れた経験のない子どもには不利になるだけだ。従って「初見で難問奇問の解ける才能」は恐らくは発見できない。
ということは、難問奇問を解かせて差をつけるのでは、本当に社会に貢献できる人間、科学技術の発展に資する人材を見出すことはできないことになる。平成期から現在に至るまで、財界にしても政界にしても、未経験の状況への対処能力に著しく欠ける人物をトップマネジメントにしたために組織全体が苦しんでいるが、これも入試制度と塾社会の弊害と言えるだろう。
数学に関しては、米国大学受験における方法論は全く異なる。まず、統一テストの水準は低くしておいて、理数系専攻志望の高校生にはほぼ満点が取れるように設計されている。その代わり、高校の履修科目を、数学の場合に最大で上下6段階ぐらいに幅を持たせる。
トップレベルの場合は、xyzの多変数微積分や線形代数までやらせる。別に統計学は独立科目として選択できる。こうした専門的な数学については、米国式のAP、欧州方式のIB(国際バカロレア)という試験で実力判定をする。