近年「教養」を身に付けようという風潮が出てきた。一見すると単なる一過性の「ブーム」にも見える。
若くして管理職や経営者になった人が、自分のイメージを高めるために「教養」に手を出す、いわばファッションという印象もある。教養を身につけるための手段としても、手軽に知識の得られる「ファスト教養」が流行しているし、また身につけるべき教養を指南してくれるコンサルやアドバイザー的なビジネスも目にするようになった。
では、そんな「教養ブーム」は単なる一過性のものとして軽視していいのかというと、それは違う。なぜなら、そこには確かな必然性があるし、長い間軽視されてきたことの負の影響は計り知れないと考えられるからだ。
時代とともに必要になっている「雑談力」
まず、昭和から平成の時代、どうして日本のビジネス界では「教養」が軽視されていたのかというと、そこには原因がある。この時期、多くの企業は取引銀行や持ち株関係によって系列化されていたし、個々の企業の中では強固な年功序列システムが人間関係を支配していた。
そんな時代には、商談や歓談の席における「雑談」には大した準備は必要なかった。上司の雑談には、部下は相槌を打っていれば良かったし、上司の方も自動的に付与された権威と権力があるので、勝手な話題を選んでも許されていた。
社外の関係でも系列取引などでは上下関係は明白だった。従って、初対面でお互いを評価する真剣勝負の機会は少なかったし、仮にあっても季節の話題とか、カラオケの話題など形式的な内容で許されたのである。
ところが現代は違う。デジタル・トランスフォーメーション(DX)を推進するなど、仕事の進め方にもようやく変革の流れができると、実力本位で取引先を選定することは多くなった。ベンダーの側から見れば、新技術を売り込むには、新規の取引先開拓は必須である。
商談の対象が全世界に広がっていることもある。その一方で、個人ベースの動きとしては、転職も一般化しつつある。つまり、ビジネスの場における初対面でのコミュニケーションというのは、前世紀とは比較にならないほど多くなっているのだ。
企業内でも、実力主義の人事が行われるようになり、年下の管理職が年上の部下を管理することも多くなった。ジェンダーや人種など構成員の多様化も進み、そもそも「当たり障りのない共通の話題」に逃げることも許されなくなっている。そんな中で、ビジネスの場において信頼を勝ち取り、影響力を行使するには個人の持っている話題の広さや深さは決定的な意味を持つようになっている。
そのような話題、つまりは手持ち情報の量と多様性のことを「教養」というならば、その意味合いは加速度的に重要になってきているし、この分野で遅れを取ることは許されない。
けれども、そんなことは既に常識である。問題は、「教養」、つまり手持ちの情報の広さと深さというのはコミュニケーションにおける「雑談」を補強するもの「だけ」ではないということだ。今回は、「教養」の持っている、ビジネスにおけるもっと本質的な意味について考えてみたい。