繰り返される毒殺、暗殺未遂
ロシアのプーチン政権と敵対した人物が毒殺されたり、辛うじて死を免れたものの、回復が困難な障害を負うケースは枚挙にいとまがない。
2004年には、リベラル系新聞「ノーバヤ・ガゼータ」の記者で、チェチェン紛争におけるロシアの残虐行為を厳しく批判してきた女性記者、アンナ・ポリトコフスカヤさんが国内線の航空機内でお茶を飲み、意識不明の重体に陥った。ポリトコフスカヤさんは幸い、一命をとりとめたものの、そのわずか2年後の06年には、自宅アパートのエレベーター内で銃殺された。
同じ06年には、ロシアの元スパイで、英国に亡命していたアレクサンドル・リトビネンコ氏がロンドン市内で、猛毒の放射性物質「ポロニウム210」が混入したお茶を飲み、3週間後に死亡している。英国では18年にも、二重スパイだったロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)のセルゲイ・スクリパリ元大佐が南部ソールズベリーで神経剤「ノビチョク」を使った襲撃を受け、娘とともに意識不明の重体に陥った。事件をめぐっては、GRUに所属する複数のロシア人容疑者が判明しているが、ロシア側は身柄の引き渡しに応じていない。
ウクライナであれば、親欧米派のビクトル・ユシチェンコ元大統領が選挙前に、ダイオキシン中毒により顔が醜く変形してしまった事件が発生している。犯人は依然として不明だが、甘いマスクで知られたユシチェンコ氏の顔の変貌ぶりに、国際社会は衝撃を受けた。
レーニンの指揮で研究を本格化
政敵などを殺害する道具としての毒物の研究は、ロシア革命を率いたレーニンのもとで本格化したといわれている。1921年、レーニンは戦場での兵器としての毒物使用の研究を当局に命じたが、特務機関は、毒物を兵器として利用するより、個人を攻撃する道具として使用するほうが、優れた特性を発揮するとの結論を出した。
海外に亡命した旧ソ連の元特務機関員らの証言から、毒物の研究は長年、モスクワ郊外にある「第二科学研究所」と呼ばれる施設で実施されていた事実が明らかになっている。欧米メディアの報道によれば、40年代には、グラーグ(矯正収容所)に収容された囚人などを使った人体実験も実施されていたという。
実際に海外において、ソ連で開発された毒物がスパイの殺害に利用されたケースも判明している。78年に英ロンドン市内で、当時は社会主義体制だった東欧ブルガリアの反体制派の男性が、猛毒のリシンが仕込まれた傘の先で突かれて死亡した事件が発生した。このとき利用されたリシンが、モスクワ郊外の第二科学研究所で製造されたものであると、KGBの元幹部が証言している。
毒を用いる手法の狙い
毒物を使用する手法が有益と考えられる理由は複数ある。ひとつは、その使用が銃殺などの行為よりも、国内外に対して幅広く〝警告〟する効果が見込まれることだ。毒を使った攻撃は、攻撃を受けた人間が苦しむ姿を周辺にさらすことになり、仮に回復したとしても、被害者は長期的に健康への悩みを抱えることになる。
そのような光景は、ソ連、ロシアの政権に逆らいたいと考える人々に対し、強い抑止効果を発揮することが期待できる。英国でポロニウムを盛られたリトビネンコ氏は死去の直前、いくつもの検査機器につながれて病床に伏している生々しい様子が撮影され、その姿が国際社会に衝撃を与えた。ウクライナのユシチェンコ元大統領はダイオキシンを盛られたとされる事件が発生した後に、顔じゅうが醜く盛り上がり、毒物の影響の恐ろしさを見せつけた。