2024年12月11日(水)

プーチンのロシア

2024年2月19日

 事実、毒殺されかかったナワリヌイ氏が治療先のドイツから帰国した21年1月、ロシア全土で抗議運動が起こり、治安当局は5000人超を拘束した。この時、治安当局が厳格な警備体制に出なければ、「プーチンは(国家資源を奪う)泥棒だ」「プーチンのいないロシアを」と主張するナワリヌイ氏の声は、社会に浸透し、反政権の炎はさらに燃え広がった可能性もあっただろう。

注目すべきナワリヌイ追悼の場所

 ナワリヌイ氏の死を受け、さっそく支持者らが街頭で追悼を示す行動を起こしているが、注目するのは、その行動の場所だ。

 ロシア各地には、歴史上、その時代の為政者に逆らってなくなった反体制派の人々を悼み、歴史の教訓を残そうとするモニュメントがある。支持者はかつての「殉教者」たちに、プーチン支配を打破しようとしたナワリヌイ氏の姿を重ね合わせようとしている。

 モスクワでは、かつてKGB本庁舎(現在はFSB本庁舎)があったルビャンカ広場に、「ソロヴェツキーの石」が置かれている。露北西部ソロヴェツキーにはかつて強制収容所が設置され、ソ連時代、政権に盾突いた多くの政治犯が収容され、故郷に帰ることなく亡くなった。

 ソロヴェツキーは、ノーベル賞作家、ソルジェニーツィン氏の代表作『収容所群島』の舞台となった場所でもあり、ソ連邦崩壊直前に、「体制の犠牲者」を悼む人々の手によって、現地から運ばれた。

 第二の都市、サンクトペテルブルクにも、強制収容所の跡地に近い場所から運ばれた10.4トンにもなる大きな石がモニュメントとして保存されている。

 支持者たちは、過去のそうした反体制派の尊い死に、最後まで意志を貫いたナワリヌイ氏の姿を重ね合わせて、「ソロヴェツキーの石」に花を手向けたのである。

 スターリン時代の圧政による犠牲者を追悼するために2017年10月、モスクワ中心部に設置された記念碑「悲しみの壁」にも、花束を添える人の列が絶えない。碑の前には生前のナワリヌイ氏の写真のほか、「私たちは忘れない。許さない」とのメッセージもある。

ナワリヌイ氏を追悼するため、政治弾圧の犠牲者を追悼する悲しみの壁の記念碑に花を手向ける人たち(ロイター/アフロ)

 モスクワ東方420キロにあるニジニ・ノブゴロドでは、内務省本庁舎前に人々が花を持って集まった。この場所では、20年10月に、プーチン政権の言論弾圧に抗議して、ジャーナリストのイリーナ・スラヴィナさんが焼身自殺を図った。

 支持者たちの無言の抗議はロシア全土に広がっている。治安当局はいずれの街でも、花束を持って静かに訪れた者たちを拘束している。彼らの多くは声高に反プーチンを訴えるのでも、治安部隊に暴力をふるったわけでもない。

 監視活動の強化は、3月の大統領選挙を控え、抗議運動の芽を早期から刈り取ろうとする証左でもある。政権はナワリヌイの遺志を明らかに恐れている。

必ずしも支持されている訳ではない「反プーチン」

 しかし、ロシア社会が、ナワリヌイ氏の反プーチンへの訴えをすべて受け入れてきたわけではない。

 独立系調査機関レバダセンターが13年からナワリヌイ氏の抗議行動に関して行ってきた定期調査によれば、13年5月の段階で、彼の行動を支持すると答えたのはたった6%に過ぎない。一方で、35%が支持しないと答え、最も多かったのは「ナワリヌイ氏を知らない」の59%だった。

 調査は20年9月、ナワリヌイ氏が帰国した21年1月、刑務所に収監された21年6月にも行われているが、この3つの時点で支持派は少数にとどまり、「支持しない」は20年9月で50%、21年1月で56%、21年6月で62%といずれも過半数を超えているのである。

 ロシア社会にとって、ナワリヌイ氏は「壊し屋」のイメージが付きまとう。プーチン政権がプロパガンダ作戦を展開し、そうしたレッテル貼りをした影響もあるのだが、人々の深層心理には、言論の自由が奪われても生活では経済的なゆとりをもたらしてくれたプーチン政権が打倒されれば、国家はロシア人の悪夢でもある1980年、90年代のカオス状態に逆戻りするのではないかという恐怖感や不安感がこびりついている。

 また、ナワリヌイ氏はプーチン政権が大規模軍事侵攻を始めた22年4月以降は、反戦の姿勢を強めたのだが、さかのぼって14年3月に、プーチン政権が行ったクリミア半島併合を事実上支持する姿勢を示しており、ウクライナ社会でもそれほど評判は高くないのだ。


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