2024年11月22日(金)

令和の日本再生へ 今こそ知りたい平成全史

2024年4月19日

 戦後日本の経済力・生産力はというと、東側に対する国土の防衛を日米安保体制に依存して、自国の軍事費を低く抑え続け、民間の発展にお金を回せてきた仕組みに由来するところが大きい。かくしてレーガン政権の米国は、ソ連に対して強気に出て西側を守ろうとすればするほど「双子の赤字」を増殖させるという悪循環に陥らざるを得ない。英仏や西独や日本はソ連の脅威を米国に取り除いてもらうため、ドル高のために献身する他なかったのである。

悲しき運命と〝富の蒸散〟の始まり

 「プラザ合意」の結果、それまで1ドルが240円くらいのものであったのが、約2年で120円ほどにまで上がる。米国経済は輸出に活路を見出し、力強さを取り戻してゆく。軍拡のための予算も潤沢になる。ソ連はもうついてゆけない。冷戦の均衡を保つ体力さえ尽き、東側全体の内部崩壊に向かってゆく。それと並行するように日本の対米輸出は苦しくなってゆく。

 レーガン大統領に協力的な中曽根康弘政権は、輸出の鈍化を内需拡大で補おうと考える。公定歩合を繰り返し引き下げ、国内はお金でジャブジャブに。金融機関は気軽に大金を貸してくれるようになる。人々はありあまるお金で土地やら株やらを買い漁る。地価も株価も高騰する。「プラザ合意」の導いた円高の貿易損失の弥縫策がバブル景気を生み、野放図となり、加熱し過ぎ、爆発して一気に萎む。日本が米国に長年の「防衛ただ乗り」のツケをまとめて払い、その分を誤魔化そうとした結果が「バブル崩壊」となって、平成という失われた時代を生み出した。そう考えてもよい。

 もっと穿った言い方をすれば、ソ連を立ち枯れさせるよりも先に米国が転んでしまわないための栄養補給を、日本が、英仏や西独と共にしてあげて、西欧はその見返りとして、東欧の旧社会主義圏を統合しつつ、欧州連合(EU)という巨大な政治・経済・文化圏を作り上げることがとりあえずはできたのだが、日本にはEUに相当するご褒美がなかった。ベルリンの壁の崩壊とセットになるように運命づけられていたのは「バブル崩壊」だけであった。

 とても悲しい物語である。だが、平成はその悲しみを増幅する。さかのぼれば、近代日本は東アジアの中で大国の地位を確保すべく、朝鮮半島や中国大陸の利権を巡って、清朝やロシア、ついには英米と争った。そのために不可欠な巨大な陸海軍がこの国の財政を圧迫し続け、国民生活にストレスを与え、ついに滅ぼした。

 ところが戦後日本は、軍国主義の復活を連合国側が恐れたのと、特に米国が反共産主義の防波堤として日本列島をどうしても押さえておきたかったせいで、平和主義と経済発展をかなり純粋に結び付けられる「稀有の道」を歩めた。45年までの日本の重しとなった軍事力のためのお金と人を民間経済の発展のために回せるようになった。しかし、次第に米国は、同盟国日本にも相応の軍事負担を要求しだした。そのとき日本の為政者は、吉田茂も池田勇人も佐藤栄作も、日本には平和憲法もあれば、国民に反米感情も根強いから、米国が無理強いすれば革命が起きて社会主義国に寝返りかねないと脅すことができた。


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