スケープゴート探しの側面
本書では具体例として、フランス北東部ロレーヌ地方の村で起きた1602年の魔女裁判の記録を載せている。放牧絡みの暴力事件を発端として、娘が隣家の孫娘から祖母のサバト行きの話を聞き出し、それを下女も証言して、最終的にある家の祖父母や両親ら5人が火刑、親族2人が鞭打ち刑に処された。
「なぜこの裁判を取り上げようと?」
「南ロレーヌ地方は魔女裁判の盛んな土地で3000もの裁判記録があります。ただ、多くは無味乾燥な記録ですが、この件は家族関係、隣人関係などがはっきりしていて、被告の言葉も残っていたので再録しました」
「サバトとは、ヘブライ語で“安息日”のこととか。反ユダヤ主義と魔女狩りの関係は?」
「あります。とんがり帽子やかぎ鼻などの外見はユダヤ人由来、魔女の踊り
ちなみに、箒にまたがり空を飛ぶ魔女のイメージは、ギリシャ・ローマの女神やゲルマン民族の農耕儀礼から来ている、とのこと。魔女は各民族の歴史のごった煮から生じたのだ。
魔女狩り最盛期の16、17世紀は小氷期の時代でもあった。寒冷な時期が続き、食料不足、飢饉、疫病が蔓延した。また15世紀末からの大航海時代により、大量の金・銀がヨーロッパに流入し新興階級が勃興、社会の階層分化が進み、旧来の共同体が至るところで崩壊した。
魔女狩りは、そうした各地の騒乱の、スケープゴート探しの側面もあった。
「18世紀になって、理性重視の啓蒙主義が広まると、魔女狩りも急速に止みますね?」
「ええ。18世紀後半、フランスやイギリスでは司法の中央集権化が進行し、上訴制も機能し始めて、不合理な魔女裁判が開けなくなります。フランス全土で魔女裁判の法的訴追が禁止されたのは1682年のことですね」
「でも、東欧や北欧では18世紀になっても魔女裁判が続き、ドイツでは18世紀後半まで続いた?」
「現在のドイツ、当時の神聖ローマ帝国は中小の領主国の寄せ集めだったので、司法の中央集権化が進行せず、下級裁判所の独断的裁決が遅くまで残ってしまったのです」
池上さんは〈おわりに〉で、「ヨーロッパ史の光と闇はいつも一体」と述べ、魔女狩りは「理性や合理主義が罠にはまったからこそ起きた」と記している。これはいったい、どういう意味ですか?
「16世紀に思想家のモンテーニュがすでに言っているように、理性は暴走するんです。ヨーロッパ人は理性や合理を生んだ自分たちの社会を、そうでない人々を排除することで成立させようとしてきた。古代ギリシャではバルバロイ(異民族)。中世ではイスラム教徒やユダヤ人。近世では魔女や植民地のインディオ(先住民や奴隷)が排除の対象でした。自分たちのアイデンティティの確立のためには、排除すべき他者が必要だった。ですから、16世紀から20世紀にかけて世界中に植民地主義が広まると、ヨーロッパ流の合理主義や科学主義がグローバル・スタンダードになったけれど、同時に差別や格差も拡散しました」
現在、我々が見ている多くの国のいびつな経済構造、ますます増える専制国家、止むことのない地域紛争……。魔女狩りの余波は今も続いているのだろうか?