ヨーロッパ史の闇の部分を代表するのが魔女狩りである。魔女とは、悪魔の助けを借りて人間や家畜、環境に害をなす人物とされ、15世紀から18世紀にかけて、約5万~10万人が魔女だとして火刑などに処された。
池上俊一氏の『魔女狩りのヨーロッパ史』(岩波新書)は、魔女狩りがいつ、どこで、なぜ、どのように発生したのかを、最新の研究成果に基づいて読み解こうとする。
「池上さんは11~12世紀の中世(ロマネスク期)を専門とされているのに、どうして近世の魔女狩りの本を書こう、と?」
「私はもともと女性史に興味がありました。ヨーロッパの女性像を古代、中世と調べていくと、近世の魔女狩りで突然ネガティブな面が、現実の女性迫害となって現れる。その理由を考えてみたいと前から思っていたのです」
魔女とされたのは(男性や子どもの場合もあったが)8割が女性、それも50歳以上の老女が多かった。初期、中期は下女などの下層民や余所者、貧しい高齢者などである。
「当時のヨーロッパは女性差別が厳しかった?」
「悪魔と結託する魔女は、キリスト教徒にとっての反逆者ですが、キリスト教自体に初期の頃から女性蔑視の傾向がありました」
『旧約聖書』の創世記に、最初の女性であるエバが蛇(悪魔)にそそのかされて禁断の木の実を食べ、アダムと共に楽園を追放される物語がある。女性を愚昧、貪欲、淫乱、狡猾な存在と見る下地があったのだ。
「とりわけ強情な老女は、性格が歪んでいると見られがちでした。占いや薬草による民間療法など、一般の人に不可解な施術を村で行っていたのも、主に老女たちです」
なぜ必ず裁判の形をとるのか?
魔女の裁判を担っていたのは世俗裁判所だった。人々の噂から始まって、逮捕―捜査―尋問―拷問―自白―処刑と進行する。
「司法を重んじて、必ず裁判の形をとっていますね。それはなぜですか?」
「各土地の支配者が、国王の配下の者でも封建領主でも、それぞれの土地で正義や秩序を確立しようとして、法律を厳守したからです。住民が魔女と見なした人間を勝手に殺すのは、私刑に当たるために阻止したかった」
「魔女裁判は、その前の教皇直属の異端審問を引き継いでいたのでしょうか?」
13、14世紀、
「裁判の形式も、拷問による自白も、魔女裁判は異端審問を引き継いでいますね。肉体を痛めつけると悪魔から解放されるから自白の言葉は信用できる、と見なしたんです」
拷問には、四肢の引き伸ばしや、突起付きの金属板による足の締め付け、爪剥ぎ、水責め、目のくり抜きなどがあった。
拷問を受けると自白して死を選ぶ者が大半だが、その時に堰を切って「共犯者」の名前を口にしたりする。魔女は単独犯ではなく、必ず集団で行動すると考えられたのだ。
「魔女は夜中にサバト(魔女集会)に行って、そこで集団で、悪魔と宴会や踊り、乱交や幼児の遺体を食べた、と。しかし、サバトで現行犯逮捕された魔女は一人もいなかった?」
「はい。サバトでの異常な行動は、すべて悪魔学者たちの妄想の産物ですから」
15世紀末から17世紀後半にかけて、フランス、スペイン、神聖ローマ帝国などで輩出した悪魔学者たちは、キリスト教世界の守護のために、魔女たちの妖術と異常行動を想像たくましく書き記し書籍化した。その内容が、活版印刷技術の迅速な普及とも相まって、ヨーロッパ各地の司法官の共通認識となったのだ。