「さりとて、私には船の舵を取る力さえありません。私は近くの豊かな英国人の家に小間使いとして仕えることになりました。この家の女教師はゲーテやシラーの詩編からルーヴルやドレスデンの美術館の画集などを持ち、それらを自由に見ることができました」
「この英国人一家が帰郷すると、また私はどこかに生計を求めるほかはありません。ここの美術学校のある教師と縁を得て、ようやくモデルの資格を得たのです。私を国王が深く親しんだスタインバッハの娘と知る人はおりません。画学生たちと奔放にまじわり、ミケランジェロからデュ-ラーにいたる西洋美術の伝統へ批判を繰り返す私を〈狂人〉と呼ぶ美術家さえいます。けれども狂人にならぬでもよいあの国王も狂人になったのなら、それも悲しいさだめには違いありません」
語り終えたマリーはやにわに、巨勢に向かって問いかけた。
「これから一緒に、シュタルンベルクへ行きませんか」
あの〈狂った国王〉、ルートヴィヒ2世が隠棲しているというスタルンベルヒ湖の湖畔の村へマリーが同道をもちかけたのは、なぜだったのか。
原田直次郎との出会い
鴎外が『うたかたの記』で留学生、巨勢のモデルにしたのは、同じころ画家としてミュンヘンに留学していて親交を結んだ原田直次郎である。
ドイツ留学中の鴎外の『独逸日記』では、約8カ月にわたるミュンヘンでの原田との深いきずなを示す記述が、11回にも及んでいる。あまつさえ、原田を中央に同じ医学の留学生の岩佐新、そしてカンカン帽に三つ揃いを着こなし、ステッキを手に気取ったポーズをとる鴎外が収まった記念写真も残されているのだから、それは格別の交友であったはずである。
〈原田は素と淡きこと水の如き人なり。余平生甚だこれを愛す〉
1886年にドレスデンから移ったミュンヘンで、鴎外はやはり日本から美術学校へ留学してきた原田と知り合った。もともと美術への深い関心をあたためていたこともあって、無欲恬淡ながら才気漲るほぼ同年のこの画学生と結んだ友情は日ましに深まった。
ミュンヘンのこうした穏やかな空気に包まれて、留学中の原田直次郎が描いた代表的な作品がいま東京芸術大学に所蔵されている『靴屋の親爺』である。
名もない精悍な老職人が日焼けした顔をこちらに向けて凝視している。伸びた髭とひいでた額が強い光線を浴びた陰影とともに浮かび上がる。汚れた仕事着の皺や乱れには、日本から留学して西洋絵画のリアリズムに向き合う、若い画家の激しい情動が筆触に結晶している。
この『靴屋の親爺』とともに原田がミュンヘンで描いたもう一点の肖像画がある。
『ドイツの少女』と題した若い女性像である。この像主はだれなのか。
〈原田の曾て藝術学校に在るや、チェチリア、ブツアツフといふ美人あり。エルランゲン府大学教授の息女なり。黧髪雪膚、眼鋭く準高し。語は英佛に通じ、文筆の才も人に越え、乃父の著作其手に成る者半ばに過ぐと云ふ。余未だ親く其人に接せざれども、曾て其図を原田の家に見るに、才気面に顕れ、女中の大丈夫たること、問はでも知らるる程なりき〉
鴎外の『独逸日記』の8月15日の記述にはこのようにある。
〈カフェ・ミネルバ〉の2階の原田の下宿で鴎外が見たという肖像画が、このチェチリアという原田の恋人であったことはおそらく疑いをはさむ余地がない。
遠い極東の異郷からドイツへやってきた男に情熱を傾けたチェチリアは、ともにパリへ駆け落ちすることを働きかけたことさえあった。才気と美貌にあふれたこの親友の恋人のモデルを、鴎外は『うたたかの記』のヒロインに置いた。
「継子よ、継子よ、汝ら誰か美術の継子ならざる」と、珈琲の香りと紫煙に包まれたカフェで仲間の画学生たちに憑かれたように呼びかける、あの少女マリーである。