2024年11月21日(木)

絵画のヒストリア

2024年11月3日

国王がシュタルンベルク湖で謎の溺死

 バイエルン国王ルートヴィヒ2世は滞在していたベルク城に近いシュタルンベルク湖で不慮の死を遂げたのは、鴎外がミュンヘンでこうした留学生活をはじめて間もない1886年の6月13日である。

ルートヴィヒ2世(1845-1886)(King Ludwig II Museum, Public domain, via Wikimedia Commons)

 国政を厭って顧みず、自らの道楽のように建設した各地の城で昼と夜を違えた生活を繰り返す。かたわらでリヒャルト・ワーグナーの音楽に心酔して寵愛する「狂気の王」は、そのころオーストリア国境に近くに中世の騎士伝説に想を仰いで造形したという、華麗なノイシュバンシュタイン城に住まった。独身をつらぬき、同族のオーストリア皇妃、エリーザベートを除いて、女性との交流はなかった。

ノイシュヴァインシュタイン城(font83/gettyimages)

 しかし、ルートヴィヒの乱行と王室が抱える巨額の負債に手を焼いたバイエルン政府は国王の廃位を計画し、逮捕して一通りの精神鑑定を行った上、身柄をシュタインベルク湖に近いベルク城へ移したのである。

 国王の死はノイシュバンシュタイン城からベルク城へ身柄を移された翌日であった。

 国王ルートヴィヒ2世はその夜、侍医のベルンハルム・フォン・グッデンとともに湖畔の散歩に出かけたあと消息を絶ち、翌朝湖上でこの医師とともに溺死体で発見された。

ルートヴィヒ2世が溺死したシュタインベルク湖(Anne Czichos/gettyimages)

この事件がドイツのメディアと世論に大きな反響を広げたことはいうまでもない。

 地元の新聞報道はもちろん、〈カフェ・ミネルバ〉に集う画学生たちの間でも格好の話題となったはずである。それが鴎外自身の文学的な想像力を深く刺激したであろうことは、事件当日の『独逸日記』の記述が過不足なくあらわしている。

 〈翌日聞けば拝寫国王此夜ウルム湖の水に溺れたりしなり。王はルウドヰヒ第二世と呼ばる。久しく精神病を憂へたりき。晝を厭ひ夜を好み、晝間はその室を暗くし、天井に星月を假設し、床の四圍には花木を集めて其中に臥し、夜に至れば起きて園中を逍遥す。近ごろ多く土木を起し、国庫の疲弊を来ししが為めに、其病を披露して位を避けしめき〉(6月13日付)

 国王が謎の溺死を遂げたシュタルンベルク湖が『独逸日記』に初めて登場するのは、事件前の4月18日。事件が起きて以降は頻繁に「シュタインベルク湖」と国王溺死事件のあった「ウルム村」を訪れており、翌年にかけてその地名が日記に登場するのは20回を超える。これは明らかに、国王ルートヴィヒの溺死をめぐる謎を『うたかたの記』の重要なプロットと考えて、そのための現場取材を繰り返した証しと見るべきであろう。

 『うたかたの記』の主人公、(巨勢)のモデルを原田直次郎という親しい留学画家に求めた鴎外は、その恋人〈マリー〉のモデルに原田へ強い愛着を抱きながら結ばれなかった、チェチリア・プフアツフをあてた。

 「曾て原田と俱に私財を擲ちて巴里に遊学せんと議したりと云ふ」と鴎外が書いた、あの才媛である。〈カフェ・ミネルバ〉に君臨して、画学生たちを前に「継子よ、継子よ、汝等誰か美術の継子ならざらむ」と呼びかける少女には、実はその生い立ちの影に国王フリートリヒ二世の暴虐で破滅に追いやられた宮廷画家の父と母がある。いま画学生の前でモデルに立つのも、その因果に導かれているという虚構を鴎外はこの小説で描いた。


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