2つの経験でかたち作られた『うたかたの記』
マリーが巨勢をシュタインベルク湖へ同道するよう誘うのは、そうした文脈から生まれている。マリーは夕暮れの湖に巨勢をボート遊びに誘い、そこへベルク城に幽閉されていた国王ルードヴィヒが侍医に伴われて湖畔の散策にあらわれて、彼女と遭遇する。
ほとんど女性を遠ざけてきた王が、かつてただ一人思いを寄せたマリーの母の面影をこの娘に認めて近づこうと湖水に足を踏み入れると、深い湖底の砂と水草にたちまち足を取られ、それを助けようとした侍医とマリーも足を取られて溺死する――。
森鴎外は留学先のミュンヘンで出会った日本人画家、原田直次郎がチェチェリアという才色にあふれた女性との間に結んだ恋を素材に『うたかたの記』を書いた。たまたま当地で遭遇した国王ルートヴィヒ2世の不可解な溺死という事件が、この物語の浪漫的な広がりをもたらす背景として大きな飛躍へのモチーフをかたち作った。
主人公の巨勢が謝肉祭でさんざめくミュンヘンの街のカフェで、スミレ売りの娘が狼藉に会って客や主人から追われる場面へのまなざしには、華麗なノイシュバンシュタインの城でひとり昼夜を違えて夢想のなかに生きる「狂える王」、ルートヴィヒ2世の孤独とあこがれにどこかで通底する。
〈さはあれどわが見し花売りの目、春潮を眺むるに喜びの色あるあるにあらず、暮雲を送る夢見心あるにあらず、伊太利古跡の間にをらせて、手に一張の琴を把らせ、嗚咽の声を出させむと思い定めき〉
原田直次郎はその年の11月にミュンヘンを後にしてスイス、イタリアを巡ったあと、翌年5月までフランスに滞在して、7月に帰国した。
森鴎外は翌年4月にミュンヘンを去ってベルリンへ戻り、医官としてカールスルーエの国際赤十字総会にドイツ語で講演するなど公務を果たしたのち、1888年9月に帰国した。
日本へ戻った鴎外が小倉に左遷されていた1899年に、原田は36歳で没した。
ミュンヘンの〈カフェ・ミネルバ〉の華で原田に激しい情熱を傾けたチュチェリアのその後の消息は、あきらかではない。