2025年1月15日(水)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2025年1月14日

 筆者の見るところ中国側は、そもそもチベットの人々の脳裏から、ダライ・ラマ14世という存在を消したいと願っている。その代わりに、習近平に導かれた中国共産党・政府の恩情・恩恵のみがチベットを救うという図式を、チベットの人々に心から実感させたいのであり、そのような図式を大いに宣伝することによって習近平政権の正しさを中国の人々の心に改めて刻もうとしている。

 ダライ・ラマ14世がメッセージを発してチベットの人の心に届け、人々を元気づけようとすることは、習近平・中国共産党・中国政府の恩情の深さを相対化してしまう。だからこそ習近平中国は、地震という局面においても間髪を入れずに「分裂主義の本質と意図」という表現を使った。

仏教と中国ナショナリズムの不和と破局

 中国側がかくも執拗な態度をとるのは何故か。

 チベットと中国の関係は極めて複雑かつ敏感なものであるが、端的にいえば、前近代においては仏教を介したつながりもあったところ、近現代になって中国ナショナリズムが生じた結果、変質と混乱の深みに陥った関係である。とりわけ、チベットも「主権国家・中国の領土の一体性」の中に固く組み込まれるべきとされた結果、両者の関係からは柔軟性が失われてしまった。

 しかも弱肉強食と「進歩」「発展」といった近代主義の諸思想が中国ナショナリストの脳髄を満たした結果、仏教社会チベットは「遅れた存在」と決めつけられた。こうしてチベットは、より「先進的」な漢人社会・中国文明の求心力に次第に融け入って、《中華民族》の一員となるべき」という圧力に、一方的に従属させられ続けた。この点は、ウイグル人などのトルコ系イスラム教徒やモンゴル人も全く同様である。

 これに対し、仏教徒としての誇りを抱くチベット人が反発し続けて来たのは当然であった。

 1645年以後ラサを都として成立し、清の満洲人皇帝とも深い関係にあったチベット政府は、清末新政の混乱(近代主義がチベット仏教を否定した端緒)と1911年の辛亥革命を機に明確に北京とは距離を置き、英国を頼って自立を目指したが、毛沢東は1951年にチベットを完全に軍事的に制圧した。

 毛沢東中国はその後、強権によりチベットの社会と文化を改造しようとしたことで、ついに中華人民共和国史上最大の内戦とダライ・ラマ14世のインド亡命という悲劇が引き起こされ(1959年のチベット動乱)、仏教中心の社会は全面的な破壊を被った。

経済発展だけでチベット人の心をつかめるのか?

 改革・開放時代に入ると、中国の胡耀邦政権は毛沢東時代への反省から穏健な少数民族政策をとり、チベットの言語・社会・文化も息を吹き返した。しかし毛沢東時代に形成されたチベット人の中国共産党に対する疑念と、対話と平和を掲げて国際社会での名声を高めたダライ・ラマ14世に対する求心力の高まりとともに、チベットでは経済が発展するほど独自のアイデンティティも強まった。

 中国共産党は、経済発展を通じて貧困を解決し、中国社会の中でチベット人も利益を得れば、今度こそ「中華民族の大団結」が実現するはずだという図式を描いていた。しかししばしば中国共産党は、「実はチベットの人々は依然としてダライ・ラマ14世に従い、中国共産党の正しい路線と恩恵で豊かになり始めた事実を必ずしも認識していない」と気づかされ、動揺した。


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