署名者が、もし、千万人と雖も我往かん(せんまんにんといえどもわれゆかん)の覚悟を持って署名したのなら、毅然とした態度で通せばよい。しかし、そうでないのなら、1億の、耳をろうせんばかりの非難にどう耐えるかという問題になる。
主権者の責任意識こそ問われている
筆者はオリンピックの際に、「ネット民こそ最強のパワハラ上司」であると述べた(「〈ネット民こそ最強のパワハラ上司!〉パリ五輪で露呈、アスリートの「名言」や「感謝の言葉」を求め過ぎていないか?」)。この点は、今回のオンライン署名騒動にも言えよう。一人ひとりは、さして悪気もない善男善女であろう。しかし、集団をなせば権力を持ってしまう。
その一方で、国民は一枚岩ではない。署名運動に嫌悪感を募らせていた人もきわめて多い。次は、この人たちが結集して、国民全体の1万分の1にすぎない署名者に対して、「最強のパワハラ上司」としてふるまい始めるかもしれない。
主権在民のこの国にあっては、天皇も皇室も私たちの統合の象徴である。一方、主権者は誰かと言えば、それはとかく失念されがちだが、私たち国民である。権力の座についているのは、天皇ではなく、私たちなのである。
冒頭に引用したアクトンの言葉は、この国の主権者に限っては免れ得るなどとはいえない。署名者の情報リテラシー、プラットフォームの管理体制など多くの教訓を残した事件であったが、何よりも問われているのは、私たち主権者の責任意識である。
私たちがその統合の象徴たる皇室に対して、どのような責任をとるか。それこそが問題の本質であると言える。