では、広告のマーケティング上の効果は測定できるのかというと、一部の「1時間以内なら2割引」などと煽るテレマーケティングの直販以外は、正確な意味での効果測定はできない。また、ライバル企業が類似の番組に大量に出稿するようだと、類似の行動を取るように経営陣が仕向けることもあるようだ。
その結果として、多くの番組は似たような内容となる。また、個人が多くのファンを持っているタレントの場合は、広告主も視聴の上乗せを計算できるという理由から、連ドラなどでも似たような顔ぶれが集められることにもなる。その一方で、自動車会社の提供番組では自社製品以外は登場しないとか、犯人の車は外車などといったバカバカしい「忖度」があったこともある。
要するに、直接的な効果測定ができない地上波TVへの広告出稿というのは、対外的なメンツが動機であったり、横並び意識の反映であったり、社内政治の結果であったり、経営上の合理的な行動とはかなり乖離した判断の結果となっている。
今回のフジテレビへの広告出稿の一律見合わせには、各企業の横並び意識やある種の「事なかれ主義」を感じる。だが、この異様な横並び意識というのは、トラブルを忌避するためというよりも、そもそも地上波TVへの広告出稿というものが、横並び意識など古い行動原理によって続いてきたということの証明ということも可能だ。
今こそテレビ業界が変わる時
実はこの地上波TVの業界は大きな危機に晒されている。ネット広告の隆盛により、広告媒体として地盤沈下しているということがまずあり、若者世代にはそもそも視聴されていないという問題もある。制作についても、高品質のドラマなどは外資のストリーミング・サービスの巨大予算に屈して事実上の空洞化が進んでいる。
結果的に地上波TVを視聴しているのは、有料サブスクの費用を払いたくない保守的な消費者や高齢者が中心となり、そうなると視聴層の購買力も細っていく中で、媒体の経済価値もこのままでは崩壊する。
今回の問題では、その詳細に目が行きがちだが、大局的には、この問題によって地上波TVというビジネスモデルが危機に瀕していることを露呈したとも言える。女性アナウンサーに対する差別的なカルチャーも、局の体質というよりも、優良な視聴者が去った結果としての荒廃が可視化されているだけかもしれない。
けれども、地上波TVの将来に全く希望がないわけではない。デジタル化が実現した中では、広告の効果測定をもっと厳密に実施することは可能なはずだ。また、番組の質を高めれば視聴者は必ず戻って来る。地上波と見逃し配信のミックスによるトータルでの収益確保も、まだまだ可能性はある。
成功したドラマを外資のストリーミングに売って「チマチマ」とキャッシュを稼ぐのではなく、場合によっては合従連衡で予算を捻出し、リスクテイクのできるプロデューサーを育てて、外資に対抗すべきだ。安土桃山から江戸初期を描いた日本語中心の時代劇が、巨額の予算を使ってバンクーバーで撮影されるなどという屈辱には、そもそも悔しいと思うのが当然だろう。
そのように業界の改革ができて、番組制作の質量が好転すれば、低俗なカルチャーは駆逐されるであろうし、女性アナウンサーへのリスペクトに欠いたタレントたちの居場所はなくなるであろう。そのような全体像への検証のないまま、被害者の正義を勝手に代行したり、あくまで組織防衛を優先するような昭和的なドラマを延々と続けているのであれば、地上波TVというスキームは本当に終わってしまうのではないか。