2025年3月16日(日)

冷泉彰彦の「ニッポンよ、大志を抱け」

2025年1月30日

 独立が叶わない中では、月給制の正社員であるから、日本のメンバーシップ雇用の弊害である「閉ざされた共同体」の一員とされる。そこでは、危険にさらされたことを訴えても、会社が体面を気にしてウヤムヤにされるとか、場合によっては会社の方針に背くと活躍の機会を奪われる、いわゆる「宮仕えという拘束」を受けてしまう。知名度が高く、ネットなどの厳しい監視に晒され、物理的な危害を受けるリスクを抱えながらも、その自由度は少ない。

いまだ残るルッキズム

 さらに女性アナウンサーの場合は、非常に悪質なルッキズムが蔓延している。アナウンサー本人も、学生時代にミスコンへ参加するなど21世紀としては驚くようなルッキズムのカルチャーに染まった人物が多い。またミスコンに入賞したことを評価して採用するなど、企業側にもそうした価値観が残っている。

 輪をかけて悪質なのは、視聴者である。デスクの承認した原稿を読むことが中心ではあっても、報道つまりジャーナリズムの一員であるアナウンサーを性的関心の対象とするカルチャーが濃厚にある。

 そのうえで、社員の局アナを芸能系の情報番組やエンタメの番組に使うことも多い。そうすると、女性アナウンサーは、局の社員という縛りを受けつつ、またエンタメに関しては素人で芸人のトークについては受けるだけという存在になる。そこで、局アナは一般人の代表として芸人に「いじられ」たり、「常識の観点から非常識に対して驚いて見せる」などの「地位の低い」役割を演じさせられる。

 そこに悪しきルッキズムが重なることで、局アナである女性アナウンサーへのリスペクトは基本的に保証されなくなる。したがって、さらに歪んだ性的な対象という視線に晒されるリスクが増大する。これは、上場企業で免許業務を行う企業の従業員にとっては、極めて悪しき労働環境と言わずして何であろうか。

 ちなみに、日本の全ての局がそうだとは思わない。女性アナウンサーにもっと強い権限を与え、それによって現代の視聴者に評価されている局もあり、一概には言えない。けれども、女性の局アナという存在が、多くの場合に社員という縛りとルッキズムの視線によって、公私にわたって制約を受けており、高いリスクに晒されているのは間違いない。今回の事件の背景にあるのは、そのような歪んだカルチャーであると思う。

なぜ、スポンサーは軒並み撤退したのか

 もう1つがスポンサーの姿勢である。広告というのはマーケティングの重要なツールであり、企業が市場を制覇するための大きな武器とも言える。従って、現代では例えばネット媒体の場合は、高度なデータサイエンスを利用して広告の精緻な効果測定が行われる。その結果として広告料金も合理的に決定される。

 例えば、ある医薬品についてネット広告を打ったとする。該当ページの閲覧数、クリック数と応答率、さらには、クリックで遷移された後の訴求ページの閲覧から制約に至るまで全て数値化される。出稿企業は、少ない費用で多くの注文を得るのが目的であり、媒体側はこれに対して適性な報酬を得るのが目的だ。

 安価な食品の広告であれば数が求められるし、反対に高額な不動産であればクリック数は少なくても成約に結びつく媒体が求められる。全ては数学であり、論理である。けれども、地上波テレビという媒体は異なる。

 多くの場合、広告出稿は横並びである。特に評価の確立したバラエティ、旬の役者を揃えた連ドラ等の場合は、出稿側のリスクも低いという説明ができることから、多くのスポンサーが相乗りしてくる。昔のように一社提供をすることで、企業のイメージやメッセージを売るというような「リスクの高い」出稿は大きく減っている。


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