<本日の患者>
S.G.さん、82歳、女性、元映画助監督。
「先生、最近はどんな映画をご覧になりましたか」
「そうですね……こんな時代なので、紛争や戦争に関係するドキュメンタリー映画へ足が向かいます。ボスニア紛争終結後にU2がサラエボで行った伝説のコンサートの舞台裏を描いた『キス・ザ・フューチャー』とか、ハマスによる襲撃で人質となったイスラエル人女性とその家族を描いた『ホールディング・リアット』とかですかね」
「あら良いわね。もう少し元気になったら、私も観てみたいわ」
「大丈夫、もうすぐ映画館へ行けますよ」
S.G.さんは、現役時代長く映画会社で助監督をしていたキャリアをもつ。今は介護付き老人ホームに住んでいて、私の働く家庭医診療所から定期的に訪問診療をしている。
S.G.さんの居室には何枚かの映画のスチール写真が飾られている。そこには往年の日本映画のスターや監督が写っていて、S.G.さんが助監督としていかに重要な映画作りに関わっていたかに感動する。
約10年前に「母の元気がなくなってきて、うつっぽいんです!」と、当時S.G.さんと同居していた娘のT.G.さんが心配して診療所へ連れてきたのが私たちの出会いだった。結局、S.G.さんには甲状腺機能低下症があることがわかり、診療を継続している。
残念ながら、娘のT.G.さんはコロナ禍で亡くなり、S.G.さんは、認知症はないものの、独居生活に不安があって、介護施設へ入居することにしたのだった。
甲状腺機能低下症とは
甲状腺機能低下症は、甲状腺ホルモンの分泌が不足することで、そのために全身の代謝が低下する疾患である。代謝とは、体内に取り入れた栄養と酸素が一連の化学反応でエネルギー生成と老廃物排出に至るプロセスである。
甲状腺機能低下症には、症状が現れる「顕在性」と症状が現れない「潜在性」の疾患がある。日本での有病率のデータは古いものしか見つからなかったが、顕在性甲状腺機能低下症は人口の約0.5〜1%にみられ、成人女性の約10人に1人が潜在性甲状腺機能低下症を有していると言われている。
原因としては自身の免疫システムが甲状腺を攻撃してしまう「橋本病(慢性甲状腺炎)」が多い。女性は男性の5〜10倍罹患しやすく、加齢とともにリスクが高まる。
この疾患の厄介な点は、その症状が極めて「非特異的」であることだ。主な症状には、疲労感、寒がり、体重増加、便秘、皮膚の乾燥、声の変化、記憶力の低下などがある。おそらく、誰でも一度ぐらいは経験したことがある症状だろう。単なる睡眠不足でも現れそうだ。
