1840年のアヘン戦争から1894年の甲午戦争の勃発までの間、中国人は既に「天に頂かれた国」(自意識過剰な国という意:筆者)という看板を下ろし、林則徐は海外に目を向けるようになった。
アヘン戦争が中国の鎖国の扉を強制的に開かせたが、中国の朝廷は依然として国力が衰退しているという事実を信じることはなく、「天朝上の国に四方から朝貢に訪れる」という美しい夢を見続け、戦争の失敗を外人の「魔術」によるものと決めつけて神が助けてくれるものとばかり希望を託していた。こうした迷信によって朝廷は麻痺し、民衆は絶望させられた。
「兵士の資質に問題があった」
一衣帯水の隣国である日本は中国のアヘン戦争において喝を入れられて夢から醒め、中国人に替わってこの戦争を反省した。佐久間象山は、清朝の失敗を「彼(西洋諸国)の実事に熟練し、国利をも興し兵力をも盛んにし、火技に妙に、航海に巧みなる事遥かに自国の上に出たるを知らずに居候故に」(イギリスが、清朝よりも遥かに進んだ軍事力を持っていることを知らなかった…:筆者)と指摘した。こうした惨敗を経ても朝廷は超然としており、学習しなかっただけでなく、外国を俗物と見なしていた。
日本民族は学習によって立国し、西洋列強によって開国を迫られてから中国と西洋を比較し、「学をなす要は格物究理に在り」と有用の実学を発見した。アヘン戦争後、日本人は中国の状況を把握し尽くしただけでなく打開策を見つけた。中国を侵略し「脱亜入欧」して、東方のボスとなろうとした。1868年に明治天皇は「古いしきたりを打開し、世界に知識を求めよ」と号令をかけ、西洋の進んだ文化を学び、留学生、使節団を派遣し、鉄道電信を興し、教育を普及させた。天皇も節約節食し、民衆は寄付も行い、一体となって軍備を拡充したことは伝説の様に中国人によく知られている。
李鴻章はドイツから「鎮遠」、「定遠」など十数隻の軍艦を購入し、仰々しく日本に訪問さえしたが、日本の代表団は北洋水師の艦船を訪問した際にすぐにその破綻に気付いた。洋務運動を通じ構築が進められていた中国の海軍は、艦船の排水量でも、火器の装備でも日本の海軍と遜色なかったが、装備を操作する兵士の資質に問題があった。規律は弛緩し、訓練は統制がとれておらず、汚職が蔓延しており、闘志がなかった。
日本のある大佐は白い手袋をはめ、軍艦の砲台を撫でたあと埃がついたのをみて、軽蔑的笑いを浮かべ、絶対的自信をもって開戦を求める書簡をしたためた。中国の甲午戦争での失敗は、兵力の相違、装備の相違でも戦術、技術が原因ではなかった。民族精神、先進的文明に対する学習態度の違いだった。