2025年12月5日(金)

医療神話の終焉―メンタルクリニックの現場から

2025年4月25日

 「あの人は最期にあんな言葉を言った。だから本心はそうだったんだ」、そう思い込む。「故人の霊は安らかに眠れない。私たちが悪かったのか?」、そう思って後悔に苛まれる。しかし、そのような捉え方をするには及ばない。

 よく考えてみれば、人は、体調が悪ければ気の利いた言葉など言えるものではない。ましてや、死の直前は、心身ともに限界で、文字通り「死にそうなくらい苦しい」のだから、周りへの気配りなどできない。その苦しみのさなかに発した叫びは、「人生の結論」でもなければ、「別れの言葉」でもない。

 これは『北斗の拳』の「ひでぶ!」ではないが、一種の苦しみの表現であり、それ自体は何らのメッセージ性ももっていない。

見送られる身は、どう言葉を遺すか

 さて、見送られる立場からすれば、どうすればいいか。まず、「人は死が近づくと混乱して、苦しみのさなかにとんでもない言動をとることがある」という一般論を知っておいていただきたい。そして、「自分も例外ではないかもしれない」とお考えいただきたい。

 では、どうするか。家族に心のこもった別れの言葉を遺すのなら、死の直前ではなく、体力と心の余裕がある時期にそうしていただきたい。

 言葉にするのが難しい場合には、感謝の気持ちを簡単な手記として遺すのもいい。それが、遺された家族にとっての大きな支えになる。

 もちろん、人によっては、人生の後半に家族や友人と不仲になってしまった人もいることであろう。複雑な思いを抱きつつ、感謝も謝罪もできるような心境でないまま、最期の時を迎える場合もあろう。その場合は、沈黙がその人の「人生の結論」であっても、それはそれでいい。

 しかし、多くの人は、死を前にして人生を振り返り、後悔と感謝と少しばかりの達成感を抱くであろう。そして、満足感を抱きつつ、旅立っていく。

 だからこそ、自分自身が落ち着いて考え、静かに語ることのできるうちに、思いを家族と共有する機会を持っていただきたい。まだ、パートナーが健在なら、二人で思い出の場所を歩いてみるのもいい。言葉にすることが難しくても、記憶のなかの出来事を語り合うだけで、十分感謝の思いは伝わる。

別れは常に突然

 終末期医療の現場を知る者からすれば、小林麻央さんの美しい別れは、それを一般化することはできないように思う。

 別れは常に突然であり、去る者も、残る者も、満足に挨拶を交わす間もない。自然の摂理は偉大であるとともに残酷であり、一瞬の出来事として人を拉し去る。その瞬間、その人は何かを語るかもしれない。家族には想定外の言葉も飛び出すかもしれない。しかし、それは、必ずしもその人の人生の結論ではない。最期の言葉を、字義通り受け取るべきではない。

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