けれども学究としての卓越性と、丁寧なコミュニケーションによって、日本独自の事情を分析し理解することで、同盟関係をより現実的な抑止力へのコミットという形に機能させようとしてきたのがナイ氏である。知日派という形容を変える必要はないかもしれないが、イザという時には厳しい忠告や明確な要求を伴う、リアリストとしての知日派であった。
ナイは何を言い遺したか
3点目は、教授は何を遺言として遺したのかという問題だ。ナイ氏は、CNNのインタビューに応じるのと前後して、3月25日には『ワシントン・ポスト』にコラムを寄稿している。その中では、ナイ氏が重視してきた「ソフトパワー」と「ハードパワー」の両面において、米国の影響力が低下していることを嘆き、トランプ政権の姿勢を批判していた。
その内容は、比較的単純な現状と現政権への批判であり、それ以上でも以下でもない。確かに、ナイ氏が生涯をかけて取り組んできた「冷戦後の世界秩序」が急速に動揺にさらされているのは事実だ。その背景には、自由と民主主義、自由経済の価値観から米国が離れてゆくとともに、同盟関係を軽視する状況がある。ナイ氏がその人生の最後にあたって、これを厳しく批判したことは当然だ。
では、この現状批判をもって氏の遺言として受け止めていいのかというと、それは違うと思う。それもまた、ある種の誤解ではないだろうか。
現状を打破するためには、こうした政権が民意によって選ばれ、続いていることの構造的な要因を見抜いて立ち向かうことが求められる。DXとAIによる自動化が進み、サプライチェーンによる国際分業が進んだ時代、米国内には知的付加価値創出の機能だけが残った。けれども、米国内には開拓者精神の悪しき側面を引きずりつつ、知的なるものに関心を向けないという層が一定数存在する。
彼らは、テクノロジーや金融が高度化し、世界がグローバリズムにより一体化する中で、どこにも居場所がないし、自分たちの名誉が侵害されていると感じている。これに対して、再分配や再教育の機会(ハードパワー)だけで対応しようとしたのが、オバマからバイデン、ハリスに至る民主党のイデオロギーであった。彼らはその一方で、多様性や環境という価値観(ソフトパワー)の分野においては、「居場所のない忘れられた層」の立場をほぼ全否定し放置した。
つまり国際関係においてナイ氏が重要視した「ハードパワー」と「ソフトパワー」の結合による強靭性というものが、他でもないアメリカ国内ではガラガラと崩壊することで、国の分断を悪化させていたのである。そう考えれば、生涯をかけてナイ氏が提唱し実践したリアリズムの姿勢こそ、現代に求められるとも言える。
