2025年12月5日(金)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2025年5月15日

“幻”となった駐日大使就任

 ナイ氏が活躍したのは、学術面だけではない。時に首都ワシントンにおいて政府高官として実際の米国政府の対外政策に関与してきた。カーター政権において国務副次官や国家安全保障会議の核不拡散グループ委員長などを務めたのを皮切りに、クリントン政権では、国家情報会議議長や国防次官補として実際の国防政策の策定に関わった。

 中でも重要なのは90年代における日米同盟の再定義であった。90年代初頭、日米貿易摩擦が激化する一方で、冷戦が終結したことで日米安全保障条約が危機に瀕することになった。旧ソ連に対するものとして存在した日米安保であったのが、ソ連の崩壊によってその存在意義が問われたのであった。

 その当時、日米貿易摩擦の激化によって、日米通商関係に緊張が走っていたのもその危機感を増幅させていた。そのような危機を、ナイ氏は、ソ連に対する対応策であった日米安保を、アジア・太平洋の平和のための日米安保というように再定義することで日米関係の危機を救ったのであった。

 95年2月にまとめられた「ナイ・イニチアチブ」と呼ばれた「東アジア戦略報告」は、東アジアに10万人の米軍を維持すると共に、日米同盟を重視しアジア・太平洋地域全体の要と位置付けていた。

 00年には、アーミテージ元国務副長官(共和党)と超党派で「アーミテージ・ナイ報告書」と呼ばれる対日政策提言をまとめている。報告書は、日本に集団的自衛権の行使を認めるよう求めると共に、在日米軍基地の多くを引き受ける沖縄の負担軽減の必要性を指摘するなどしていた。

 その後、アーミテージ・ナイ報告書は、回を重ね、12年には日本が一流国であり続けるためには、集団的自衛権行使に向けた憲法改正や武器輸出三原則の撤廃などが必要と提言した。24年4月には第6次の報告書が出され、日米同盟をより統合された同盟という高みに移行するよう提言していた。日米関係への功績から14年に旭光重光章を受章している。

 その日本に対する高度な学識や政府高官としての経験から、ナイ氏は駐日大使候補として幾度も名前が挙がった。中でも一番大使に近づいたのは08年11月の大統領選挙で勝利したオバマ政権の一期目だった。ナイ氏が駐日大使に内定したという噂がワシントンを駆け巡ったのである。

 しかし、結局、大統領選挙の資金集めで功績のあったジョン・ルース氏に決まっている。結局論功行賞的人事となって、ナイが外れたことに一部でため息が聞かれた。

今の米国や世界に語っていたこと

 トランプ政権二期目が始まり、政権初日から国際秩序を揺るがす政策が次々打ち出されている。それはあたかも自らの強い武器であるソフトパワーを自ら打ち捨てているが如きである。

 ナイ氏が60年にわたって本拠としたハーバード大学も、今トランプ大統領の攻撃にさらされている。そのような現状をナイ氏はどのように見ていたのだろうか。


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