造形的な画面のつらなりと詩のような台詞
画面では緑あふれるリュクサンブール公園のテニスコートで、白いスコート姿の若い娘たちがテニスに興じている。そのショットにかぶさるように、主役のフェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)が朗読する声がひびく――。
〈ベラスケスは50歳を超えると、もはや決して対象を明確な輪郭線で描くことはなかった。彼は空気や黄昏とともに対象のまわりを彷徨い、背景の透明感と影のなかに色調のきらめきを不意にとらえ、この眼には見えないきらめきを核とした静かな交響を奏でた。彼が世界のなかにとらえるのは、いかなる衝撃、いかなる激発であろうとも、その歩みを露呈させたり中断させたりすることのない、密やかで緩みのない進歩によって、形態と色調が互いに浸透し合う神秘的な交感以外のなにものでもない‥‥〉
フェルディナンは浴槽に入ったまま、広げたエリー・フォールの「美術史」という本を読んでいる。「ベラスケスは夜の画家、そして空間、沈黙の画家である。真昼に描こうが、閉ざされた室内で描こうが、戦争や狩猟が彼の周りで荒れ狂うときでさえそうだ‥‥」と朗読は続き、彼は傍にいる幼い娘に「どうだ、美しいだろう」と話しかける。
『気狂いピエロ』はパリの虚飾にまみれたブルジョワ家庭と、退廃的な社交の場を逃れて、主人公のフェルディナンが若い恋人のマリアンヌ(アンナ・カリーナ)と破天荒な逃避行を重ねたあげく、たどりついた南仏の海辺でダイナマイトを巻いて自爆するという、荒唐無稽なロードムービーである。殺人や強奪、犯罪組織の追尾といったサスペンスの果てに、マリアンヌの裏切りでフェルディナンはすべてを失い、死へ爆走する。
この映画は第二次世界大戦中、ナチス占領下のフランスで実際に起きた事件をモデルにしている。悪名高いギャングのボスで「ピエロ」と呼ばれたピエール・ルートレルの一味は各地で銀行強盗を繰り返し、1946年に宝石店の襲撃で「ピエロ」が死ぬまで犯行は続いた。のちに小説にもなり、ゴダールのこの作品のあとにもジャック・ドレ―監督がアラン・ドロンを主役に『友よ静かに死ね』を撮っている。
もっとも、ゴダールの『気狂いピエロ』の核心はそんなノワールなサスペンス劇の筋書きにあるのではもちろんない。地中海の海を思わせるブルー、鮮血のような赤、そして太陽の光がはこぶ黄色と、鮮烈な色彩がいたるところに乱舞する画面の造形的なつらなり、そこに断片的にはてしなく交錯する登場人物たちの詩のような台詞を重ねた、即興的なカットにこそそれはある。
「あなたが望むことなら、あたし、何でもするわ」
「俺もだ、マリアンヌ」
「あなたの膝に手を置くわ」
「俺もだ、マリアンヌ」
「あなたのからだじゅうにキスするわ」
「俺もだ、マリアンヌ」
二人の隠れ家の居室にはルノワールの「少女」やモジリアニの「黒いネクタイの女」、ゴッホの「夜のカフェテラス」などの名画の複製があちこちにかけられている。
絵画のみならず、この映画のなかでは古今の小説や詩などの夥しい作品の一節が、フェルディナンの台詞やナレーションではてしなく引用される。映画評論家の山田宏一氏が著書の『ゴダール/映画誌』で、その鏤められた引用作品を逐一拾い上げている。
―セリーヌの『夜の果てへの旅』と『なしくずしの死』、バルザックの『セザール・ピロトー』、フィッツジェラルドの『夜はやさし』、レイモン・クノーの『わが友ピエロ』、プルーストの『失われた時を求めて』、ジュール・ベルヌの『神秘の島』、チャンドラーの『大いなる眠り』、武勲詩『ギョームの歌』、フォークナーの『響きと怒り』、ジャック・プレヴェールの詩集『パロール』、アルチュール・ランボオの『地獄の季節』、ガルシア・ロルカの『イグナシオ・サーンチェス・メヒーアスを弔う歌』‥‥。
それはゴダールという若い映画作家の書斎の本棚に並ぶ書物のタイトルを見ているようでもあり、1960年代のフランスに躍り出たゴダールという映画作家とその〈時代精神〉を映し出す鏡を見ているような眺めでもある。
