画家のトゥールーズ=ロートレックが『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』というポスターを描いて評判になった。1891年のことである。もちろん〈ムーラン・ルージュ〉は、「赤い風車」を目印にパリのモンマルトルに生まれたキャバレーのことだ。

人気ダンサーだった〈骨なしヴァランタン〉のシルエットの向こうで、カンカンを踊るラ・グリュが片足を高く上げて「ギター」と呼ばれるポーズを決めている。黄昏色の背景には着飾った観衆の影絵と〈MOULIN ROUGE〉の赤い文字が浮かび上がる。
劇場や競馬場、サーカス、カフェといった世紀末のパリの街角に生きる男女の風俗を軽やかに、そしてある種の苦みを漂わせて描き続けたロートレックは「ベル・エポックの案内人」と呼ぶのがふさわしい。しかし、そのわずか9年後に37歳という短い人生を閉じてしまうこの画家がそこでなげかけた眼差しに、〈フレンチ・カンカン〉の底が抜けたような狂騒と饒舌はどのように映っていたのだろうか。それは華やかな大衆社会の爛熟がその後の混迷や疲弊に導かれる、不安な未来への予兆の調べであったのかもしれない。
ロートレックは1864年、南フランスのアルビの名門貴族、アルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ伯爵の嫡子として生まれた。母アデールも同族のいとこという血族結婚であり、それも要因となって彼は少年期に両足が発育を止めてしまう障害を抱えた。名門貴族の豊かな家産のもとで育まれた彼の早熟な画才は、この身体の障害を一つの発条にして世紀末のパリの混沌のなかに花開く。
とりわけカフェや劇場など新しい都市風俗の中に生きるダンサーや俳優や観客といった人々の猥雑なざわめきを、素早いデッサンと鮮やかな色調でとらえたロートレックの版画やポスターは、伝統的な絵画様式に代わる新しい都市のメディアとして喝采を浴びたのである。
画家がポスターに描いた『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』のモデル、ラ・グリュはアルザス出身の洗濯女だったが、ムーラン・ルージュの舞台で演じるフレンチ・カンカンが評判をとって、一躍モンマルトルのスターとなった。
ロングスカートの下に幾重ものペチコートを重ねて、黒のストッキングをはいた足を頭の高さまで上げて見せる。かと思えば両足を開いて、床に一直線につける〈スプリッツ〉と呼ばれるきわどい演技は、賑やかな〈ギャロップ〉の旋律にあわせて呼び物となり、観客はその姿に大きな歓声を送った。ロートレックが繰り返し描いたムーラン・ルージュの舞姫、ラ・グリュのカンカンの舞踊は、かくして〈ベル・エポックの華〉としてその後の〈オペレッタ〉と呼ばれる喜歌劇を彩る定番の様式になってゆくのである。