第二帝政の時代のナポレオン三世は、独裁者ゆえにつねに「世論」の動向への監視と媚態(びたい)を使い分けることに腐心した。アレクサンドル・デュマやテオフィール・ゴーティエといった当代人気の作家たちを執筆者に迎えて、独裁政権批判で部数を急激に増やしていった新聞『プレス』の発行人、エミール・ド・ジラルダンはこの時代の「世論」を動かす司令塔だった。オッフェンバックの舞台で狂言回しというべき役どころの「世論」には、こうした人物が影を落としているのかもしれない。
『地獄のオルフェ』のなかで競馬の「ギャロップ」に由来する激しいテンポで演じられるフレンチ・カンカンはその後、ほとんどオッフェンバックと『天国と地獄』を結ぶ視聴覚的な表徴になっていった。劇場やキャバレーや百貨店など、パリの都市改造とともに広がるこの時代の大衆消費社会の気分に〈カンカン〉が同調していった結果であり、奇しくもそれが第二帝政の下でオッフェンバックの「黄金時代」を形作るのである。
美貌ではなく、人生の痛みを描く
ロートレックがモンマルトルの「ムーラン・ルージュ」でカンカンを舞うラ・グリュをモデルにポスターに描いて喝采を浴びるのは、それからおよそ三十年余りのちである。
そのころのモンマントル界隈は、「パル・ド・ラ・レーヌ・ブランシュ」(白い女后)や「ル・パル・デュ・ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(麺麭菓子の風車)など、あまたのダンスホールが軒を連ね、人気の踊り子が妍(けん)を競って流行の「カンカン」を踊った。
とりわけロートレックが好んだ「ムーラン・ルージュ」(赤い風車)には、あの食いしん坊のラ・グリュをはじめラ・メリニト、ヴァランタン・デゾッテといった、個性的な魅力をたたえた踊り手たちがいた。
自由で奇抜な衣装の彼女らの踊りを見るために、ここには新興のブルジョワたちに交じって、労働者や同性愛の街の女といったさまざまな人々が観客となって、いつも猥雑な活気がみなぎっていた。ロートレックが愛着したのはそのざわめきであり、そこから沸き立つ踊り子たちの目くるめくような踊りと「カンカン」の演奏の溶け合った舞台の輝きだった。
同時代にロートレックと交友を重ねた作家のギュスターブ・コキオが、そのころの「ムーラン・ルージュ」の舞台を、あたかも昨日見た情景のように生き生きと書き残している。
〈踊り子たちはまず頭を左右に振りはじめ、ダンスの初めは至極穏やかだが、やがてウェストを振ったり、ねじったり、そして彼女たちの身体から炎がほとばしり、瞳が燃え、白いのどをのけぞらせて興奮の極に達し、笑いころげ踊りまわる。そしてこの狂おしい焔は男たちのなかの燃え広がり、それが期せずして踊りに酔いしれた女達にも喜びの火となるのだ。オーケストラの音楽が指揮者の合図で停止するまで、彼女たちは男どもの興奮に駆り立てられて腰の発条がはずれるほど無茶苦茶にふりまわして踊りまくるのである。この激しい踊りの核心ともいうべきものは――その音楽である〉(『回想のロートレック』東珠樹訳)
もちろん、ロートレックは、舞台の上の美貌や官能的な踊りの魅力をもっぱら求めて「ムーラン・ルージュ」の踊り子たちを描いたわけではない。ミラーボールと小旗が揺れて、酒と安香水の匂い、たばこの煙とざわめきで満たされたキャバレーの空気のもとで、「痛み」を抱えて生きる彼女らの人生の陰翳(いんえい)にも画家の絵筆は及んでいる。
