2025年12月6日(土)

絵画のヒストリア

2025年8月10日

 山田氏はフランスで自らも批評家としてながくかかわった批評誌「カイエ・ド・シネマ」を通して、ゴダールをはじめとする若い〈ヌーベルバーグ〉の作家たちの登場に立ち会った時代を回想している。

 〈1965年、ぼくらはみんな『気狂いピエロ』に狂っていた。映画はそこからはじまり、そこに終わるかとすら思えた。『気狂いピエロ』は、映画そのもの代名詞になってしまった。映画という言葉が消滅しても、『気狂いピエロ』が「映画」という理念を具現しつづけるだろうと僕らは信じた〉(山田宏一『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』

エンディングに重ね合わされた同時代の画家

 絶望した『気狂いピエロ』の主人公のフェルディナンは裏切った恋人のマリアンヌを殺したあと、陽光輝く地中海の海辺で顔を青いペンキで塗りたくり、ダイナマイトを巻いて自爆死する。

 そのエンディングではアルチュール・ランボオの詩集『地獄の季節』の有名な一節が、はてしない紺青の海の風景にかぶさる。

〈見つかった
 何が
 永遠
 太陽とともに去った海〉

 ゴダールがランボオの詩とともに、この場面にイメージを重ねたといわれるのは、『気狂いピエロ』の引用にも登場する同時代の画家、ニコラ・ド・スタールの作品である。

ニコラ・ド・スタール「Agrigente」(1953)油彩・カンバス(akg-images/アフロ)

 深い青と鮮やかな赤、そして光の束のような黄色が形作る抽象風の画面は、この画家が41歳でアトリエから身を投げて命を絶った南仏アンティーブの岬の風景と重なる。そして「ニコラ・ド・スタールが映画監督であったなら、自ら命を絶つことはなかったろう」と悼んでこの画家に特別の席をあたえたゴダールの心象風景にも重なるのである。

 1914年、ロシアのサンクトぺテルブルクでロシア貴族の子息として生まれたニコラ・ド・スタールは、ロシア革命で家族とともにポーランドへ亡命する。しかし、将軍職だった父と富豪の娘の母が失意のなかで相次いで世を去り、孤児となった三人のド・スタール兄弟は知己を頼ってベルギーのロシア人の家庭に引き取られた。

ニコラ・ド・スタール(1914-1955)(Archives nationales, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons)

 ニコラはブリュッセルの王立美術学校へ入学し、ここでデッサンを学んだのち、オランダやスペイン、イタリアなどを旅してそれぞれの風土に根差した鮮やかな色彩を風景や人物にとり込んだ抽象風の作品を確立していく。

 この旅の途中、モロッコで年上のフランス人女性、ジャニーヌ・ギューと出会い、その連れ子たちとともに南仏ニースに移り住んだ。しかし絵は売れなかった。

 第二次世界大戦下で志願して外人部隊に入って8カ月の軍隊生活を送ったあと、ナチス占領下のパリで開いた個展も振るわず、戦争が終わると心を寄せてきたジャニーヌが病気で亡くなる。亡命者ド・スタールの身辺は揺らぎつづけた。

 戦後、ジャニーヌの遠縁のフランソワーズと結婚、フランス国籍を得てから画家の作風は明るい色調の具象的な筆触に転じて、ようやく光が当たり始めた。1950年代にはフランス政府の買い上げをはじめ、パリやニューヨークでの個展などで、ド・スタールの名は広く知られるようになった。


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