1953年、シチリア島を巡って地中海の陽光をふんだんに浴びた画家は、それまでの具象と抽象の間を行き交う迷いから脱出したかに見えた。南仏アンティーブの海に面したアトリエを設けて、多忙をきわめる日々を送っている。
〈ぼくの試みているのは継続的な、真に継続的な革新で、これはやさしいことではない。僕の絵が外観、激しさ、ひた押しの力業の下でどうあるのか、それが善なるもの、崇高なるものという意味で脆弱なこと、愛のように脆いことは、自分で知っている〉
1954年12月、親しい友人にあてた手紙でド・スタールはこう記した。
制作がたてこむなかで「僕を工場だと思わないでくれ。これでもできるだけはやっているのだ」という画商にあてた手紙は、画家の抱えた新たな痛みを伝えている。
ゴダールが選んだ自己解析
1955年3月5日、画家はウェーベルンとシェーンベルクのコンサートを聴くためにパリへ出向き、アンティ-ブへ戻るとこれを題材にした大作「コンサート」の制作に3日間没頭した。そして16日夜、地中海をのぞむアトリエのテラスから身を投げて死んだ。
『気狂いピエロ』の主人公、フェルナンドがダイナマイトで自爆して死ぬ場面に、ゴダールはニコラ・ド・スタールがアンティーブのアトリエから身を投げた情景をおそらく重ねた。そして「彼が映画作家であったなら、みずから命を絶つことなどなかったろう」という言葉でこの画家を追悼しているのは、夭折したニコラ・ド・スタールの豊かな才能に対するオマージュであるとともに、〈ヌーベルバーグ〉で破壊と創造を目指した〈映画〉というメディアの将来に対する楽天的な確信の表明でもあったろう。
しかし、ゴダールがそれから20世紀末へ向かって歩みをすすめたのは〈映画〉の再構築ではなく、〈映画〉と歴史をめぐるいわば限りない自己解析である。その映像から新しい現実が生まれることは、もはやなかった。
〈歴史はひとりぼっちだ。歴史は人間から遠く離れてたところにいる。これが私のアイデアなのです。フェルナン・ブローデルも、歴史には二種類あるといったときに、こうしたたぐいのことをいっています。その二種類の歴史の一つは、速足で我々の方に駆けてくる、近くの歴史です―テレビとか<シュピーゲル>、それにまた、もうすぐ実現するはずのCD-ROM化されたゴヤやマティスがそれです。そしてもうひとつは、ゆっくりした足取りでわれわれにつきそう、遠く離れた歴史で、あなたがたの最もすぐれた芸術家の名だけあげていえば、カフカやビナ・バウシュやファスピンダーがそれです〉(1995年9月、フランクフルトでの講演で)
ゴダールは1995年に『JLG/自画像』を撮った。自身と同時代の作品や人々を通して回顧するドキュメンタリーである。引用と証言によって、ひたすらゴダールと同時代が浮かび上がる。
20世紀末の20年ほどの間には、自らの映画監督としてかかわった仕事の集大成として、4時間28分におよぶ『映画史』を完成させた。自作を含めて400本余りの作品を引用した、いわば「映画の履歴書」である。
ゴダールは2022年9月13日、スイス西部のボー州の自宅で安楽死をえらび、91歳の生涯を閉じた。ド・スタールが41歳で自ら生命を絶ったのと同じく、〈ヌーベルバーグ〉の巨人は自らの意思でその生涯を閉じた。
