1964年五輪開催決定で失地回復
無念の思いが蓄積されていただけに、59年に5年後の東京オリンピック開催が決まった時、関係者の間では都市計画実行にかける情熱が燃え上がった。抑制されてきたエネルギーが一気にほとばしった。
道路整備のキーワードは拡幅と立体交差だった。東京では、59年の自動車登録台数約50万件が64年には約170万件へと急増し、マイカー、モータリゼーションなどという言葉が流行語となった。道路の絶対量を増やすことが大命題となり、オリンピック開催に伴い緊急に整備した道路すなわちオリンピック道路は22路線52キロメートル(km)に及ぶ。
このとき建設した環状7号線は、主要幹線道路や鉄道との交差部分を原則として立体交差とした。皇居を中心として放射状に延びる道路に同じく皇居を中心として8本の同心円環状道路を組み合わせる都市構造は、これらが立体交差することによって機能的な都市を形づくる。環状道路は、周辺部のある地域から同じく周辺部の別の地域へ移動する車が放射道路を通って無用に都心に集中するのを防ぐ。
今日、東京の道路率が約17%(61年には9.8%だった) と、世界主要都市の20%程度に比べて著しく低いのに、ニューヨークやロンドン、パリに比べて渋滞が格段に深刻ということがないのは、環状道路構造が寄与している。北京はそれを知っていて、08年オリンピック開催を機に環状道路を整備した。
環7と並んで環状道路の代表格は、首都高速道路都心環状線である。この構想の原型には、戦後、運河に戦災瓦礫を埋めてつくられた汐留-京橋間を結ぶ東京高速道路、いわゆるKK線がある。高架下をテナントビルとして店舗賃貸収入を得て、無料の高架道路とするユニークな発想である。
首都高速道路公団の発足はオリンピック開催が決まった59年で、オリンピック開催の64年には羽田空港と都心を結ぶ1号線を始め31㎞余を開通させた。首都高速道路は交差点部分のみを立体にした環7と違い、道路すべてを立体化した未来的なやり方である。立体交差の極致と言っていい。
都心部の連続立体交差道路は世界に例がない。その後、構想され事業が開始された首都高速中央環状線は、山手通りの地下を走る新宿線が10年に開通した。
後藤新平の環状都市構造を100年かけて実現
東京の環状道路計画は、後藤新平が100年以上前、震災復興計画として定めたものである。1923年、関東大震災の震災復興計画では皇居を中心に5本の環状道路を計画したが、震災後に東京の市街地と人口は郊外に向かって急速に拡大したため、27年に新たに環状6号、7号、8号という3本の環状道路を計画に加えた。
震災復興計画は昭和通りや靖国通り、晴海通りなどを実現したが、8本の環状道路計画は財政難のため実施できなかった。45年、戦争終了と同時に東京都はこの8本の環状道路計画を改めて正式に都市計画決定したが、占領軍は歯牙にもかけなかった。
