戦後80年に戦争と平和を深く考えることは大切だが、ここではまったく別の視点から、占領軍のマッカーサー元帥が日本の戦争遂行能力を削ぐために首都東京の復興を否定したのになぜ、東京は発展したのかについて考えてみたい。
東京百年史(1972年、東京都)や東京都政五十年史(94年、東京都)など東京の通史によって戦後都政の経緯を読むと、担当者の歯ぎしりが聞こえてくる。第二次世界大戦後、東京のほぼ全域が焼け野原という絶好のチャンスなのに、占領下の首都という特殊な立場であるために都市計画を実行できなかった。
当時、日本の地方中心都市はいずれも、空襲後の焼け跡を活用して幅員100メートル(m)級の道路を次々とつくっていた。ところが最もひどい空襲を受けた東京都に対しては占領軍が「厚木、横田、入間の米軍基地を結ぶ国道16号と五日市街道を整備せよ」と命令する文書が残っている。
占領軍司令部はドッジ・ラインによる緊縮財政方針、シャウプ勧告による都市計画税廃止を指示して、都には道路や鉄道を整備する資金もなかった。当時の都の幹部は、地下鉄建設について占領軍から「安上がりにするならつくってもよい」と言われて、丸の内線を時々地上に出したり編成を短くしたりして経費を節減しようやく認められたと書き残している。
経済はめざましく復興したが、道路は狭いままで、低層住宅がびっしり建ち並ぶ東京がこのときでき上がった。皇居を中心として市街地が同心円的にスプロールしていき、都市基盤整備はそれを後から追いかけていく結果となった。
