1923年の関東大震災からちょうど100年経って、当時内務大臣兼復興院総裁だった後藤新平の震災復興が成功体験として紹介される例が多い。
確かにあのとき、東京は、昭和通り・靖国通り・晴海通りなど幹線通りをつくり、隅田川をはじめ河川に多くの名橋をつくり、公園もたくさんつくった。これらを今日でも私たちは東京の重要なインフラとして使っている。
後藤新平の震災復興が今日の東京の都市計画の基盤をつくったことは間違いない。しかしあのときの日本は、日清・日露の二つの戦争を経て軽工業・重工業を通じて産業革命をなし遂げた時だった。
当時の日本は伸び盛りだった。だから焼け野原に道路・公園・橋など都市基盤施設を敷設して東京を近代都市に変えた震災復興は成功した。しかし現代は、成熟社会・高度情報社会である。
後藤新平の震災復興の成功体験をそのまま現代にもってきても通用するわけではない。後藤新平のやり方が現代に通用する点と通用しない点を整理しておくことが大切だ。
被災後すぐに基本方針を決定
後藤は発災当日の9月1日に内務大臣に任命されると、9月6日の閣議にさっそく「帝都復興の議」を提案した。首相官邸は消失を免れたものの、地震による屋内の混乱もまだ片づいておらず、庭の芝生の上にテーブルを持ち出して会議を開いた。
「帝都復興の議」は冒頭に、「今次の震災は帝都を化して焼土となし、その惨害言うに忍びざるものあるといえども、理想的帝都建設のため真に絶好の機会なり」と書いて、東京が首都であり続け、理想的帝都を建設すると明言した。