当時の日本には、軍を中心に、他国の海軍が攻めやすい東京より、内陸部に首都を移すべきだという強い意見があった。国民の間にも、焼け野原になった東京の再建について絶望的なムードもあった。東京には再び大きな地震があるという学説もあった。
これに対して後藤は「国防上の問題は、どこに首都を定めても同じだ。遷都によって解決はできない。それより、国力を充実させることだ。災害の危険性も同じだ。幅広の道路と多くの公園によって延焼遮断帯をつくり、河川に鉄の橋をかけた方がよい。自動車の時代がくるから、欧米にない都市計画を実行するべきだ」と強く主張した。
後藤の主張が通って9月12日には、「帝都復興」の勅語が出された。天皇の名をもって遷都がないこと、首都の復興を行うことを内外に明らかにしたのである。政治も行政も社会も被災者の支援に忙殺される中でこのように国の根幹について議論が行われ、迅速に明快な決定がなされたのは特筆すべきことである。
欧米の模倣でない都市計画
後藤は帝都復興の議に先立って自分のメモに「欧米に比してもさらに最新の都市計画を採用して、わが国に相応しい新都を建設する」と記した。
「欧米に比してもさらに最新の都市計画」とは何か。環状道路を骨格とした都市構造である。後藤は震災から4カ月も経たないうちに、皇居を中心に同心円状で環一から環五まで五本の環状道路の計画を決めた。今、後藤の出身地である岩手県奥州市の後藤新平記念館に環状道路についての後藤のメモが展示されている。
震災後に東京の市街地は一気に郊外化し、4年後に東京市は環六、環七、環八の三本の環状道路を計画に追加した。環状一号線から環状八号線に至る環状の道路構造計画だ。
青梅街道、甲州街道等の放射道路と環状一号(ほぼ内堀通り)から環状八号まで八本の環状道路を立体交差で組み合わせる、世界に例のない優れた東京の都市構造計画がこのときできた。環状道路と放射道路を組み合わせ、その交差部分を立体交差にすることによって信号ストップを少なくした。
後藤の時代にはこの環状道路構造は計画だけできて実施はされなかったが、1964年のオリンピック(五輪)のときに環状七号線道路が建設され、主要な放射道路および鉄道とは立体交差された。連続立体交差のための高架構造を基本とする首都高速道路も五輪時に建設された。その後環状六号線通り(山手通り)のかなりの部分がトンネル形式で建設された。
まだ自動車が走り始めた時代に、碁盤の目構造(格子状)の道路だと信号が多すぎて道路渋滞が発生すると予見して環状道路構造を計画し、しかもこれによって都心に車が集中するのを避けた発想は、刮目に値する。東京都は、百年前の震災復興計画で決めた環状道路構造計画を百年かけて実現してきた。世界に例のない都市構造である。