戦後、私たちはこの環状都市構造を基本として直径約100キロメートルの圏央道をつくった。約230ヘクタールという十分な広さで中心性を持つ皇居を中心に道路・鉄道・土地利用が環状を基本として精緻に構成され有機的に機能が連携している関東平野の都市構造は実は100年前に決定されていたのである。
現代では成熟社会に考慮を
後藤の復興計画が成功したのは、当時の伸び盛りであった日本に必要なインフラ整備計画だったからである。現代では成熟社会・高度情報社会にふさわしい復興計画が求められる。
東京都の人口は現在1400万人を超え、増え続けている。これを調整するためには官公庁・企業・大学その他の各機能を環状の外周部すなわち圏央道の沿線都市に相当程度移転を促進することも議論されるべきだろう。
都市機能の分散なくして、たとえば中野区、杉並区、豊島区などをはじめとする道路面積率も公園面積率も低い地域の改善はできない。これらの地域には高経年マンションが多い。高度経済成長の初期につくられ、築40年以上を経過した耐震基準を満たしていないマンションも多い。居住者の高齢化・非居住化・管理不全により建て替え資金を賄えないケースも多い。マンションスラム化の引き金となりかねない。
日本は分譲マンションを建設し共有部分と専有部分に分けローンを組む精緻な仕組みをつくったが、それを数十年後に更地にして解散する仕組みを未だに作り得ていない。すべてのマンションが円滑に建て替えられるわけではない。またその必要もない。解散の仕組みをつくらなければならない。
東京が焼け野原にならなくともこれらについての議論は進めるべきではないか。関東大震災から100年が経過し、当時の都市計画が再評価されるのに際して、後藤が見せた先を見通した欧米の模倣ではない都市づくりが求められている。