2025年12月6日(土)

日本の医療は誰のものか

2025年9月5日

夫が経験した壮絶な治療
透析医療の実態

透析を止めた日
堀川 惠子 (著)
¥1,980 税込

 17年に亡くなった私の夫は、透析患者だった。32歳で難病を発症、血液透析のお陰で命を繋ぎ、仕事をやり遂げることができた。だが終末期に緩和医療の支えはなく、人生最大の痛みに苛まれながら生を閉じた。

 拙著『透析を止めた日』(講談社)が多くの読者を得ているのは、これまで透析患者の終末期の情報が世に出てこなかったからだろう。私の元には、痛切な体験を綴った遺族からの手紙が多数寄せられている。

 血液透析の現場は、とても特殊だ。冒頭で述べた医療ビジネスから眺めた光景と、ベッドの上で透析器につながれる患者が見る風景とでは位相がまったく異なる。

 渡辺淳一『病める岸』(1975年、講談社)に、若い透析患者が友人に吐露する言葉が綴られている。

 ──(自分は)器械のおかげで生きている器械人間だって、だから停電になったらそれきりだし、誰かが殺そうと思ったら簡単だって。

 かなり露骨な表現だが、患者家族の胸には鋭い痛みを伴って響くものがある。

 透析患者は週に3回4時間以上、透析施設で体中の血液を外に出して老廃物や水分を濾し、再び身体に戻すという極めて侵襲性の高い治療に耐えている。「今日、透析を回せば、明日は生きていられる、そして明後日はまた透析─」。夫も、そんな日々を必死に生きた。

 生活上の制限は厳しく、溢水(溺れるような苦しみ)や感染症、突然死の恐怖もつきまとう。なのに社会からは「医療費の無駄遣い」といった心ない批判に晒され、声もあげられない。

 透析は、腎臓の機能を代替する療法であり、根本的な治療ではない。透析器の性能は進歩が目覚ましいが、そこに繋がれる患者の身体は年々、弱っていく。この非対称性が透析医療の宿命でもある。

 血管も心臓も確実に劣化は進み、透析を回すこと自体が難しくなる時がくる。「生きるために透析をしていた」夫も、ある時期から「透析のために生かされている」状態になった。鎮痛剤や昇圧剤を次々に投与しながら、酷い痛みに喘ぎながら透析を回した。

 救命の責務を負う医療者たちは「まだまだ回せます」と、「延命」のために尽くしてくれた。一方で夫自身の思いは一度も問われることなく、尊厳ある「出口」を見つけることは難しかった。

 人生最後の頼みの綱であるはずの緩和医療は、日本の場合、がん患者が中心で、腎不全患者にはほとんど保険点数がつかない。使える薬も限られている。

 緩和医は腎不全を診ようとしないし、透析の専門医は緩和ケアに長けていないケースが多い。だから終末期の透析患者にはまともな受け皿がない。1兆6000億円もの巨費が投じられる業界なのに、診療報酬の枠から外れる終末期への対応はあまりにお粗末だ。


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