2025年12月8日(月)

世界の記述

2025年10月17日

混乱の発端

 昨年5月の欧州議会選挙で敗北後、マクロン大統領は劣勢挽回を意図して7月に国民議会の抜き打ち解散総選挙に出たが、人気回復どころか逆に極右と極左勢力の進出を許し、政権与党中道派「ルネッサンス」は過半数を割った。それまでも22年総選挙でマクロン大統領の中道派は過半数をとれず、少数与党に落ち込んでいた。

 その場その場の多数派形成という不安定な政局運営を強いられていたマクロン大統領は一気に事態の回復を図ろうとしたのである。火中の栗を拾おうとしたマクロンの賭けは大失敗に終わった。

 劣勢の中で大統領による首班指名はその後3カ月を要し、ようやく9月に組閣した保守派の古参バルニエ政府も25年予算の成立ができないまま、政府信任否決動議が可決し、3カ月しかもたなかった。それを引き継いだのがマクロンを支えてきた中道派の中心、大物政治家フランソワ・バイルだった。それが昨年12月のことだった。

 実は9月初めのバイル政府信任決議案は、首相の方から提出されたものだった。バルニエ政府不信任の時には、社会保障関連予算を憲法第49条3項によって審議打ち切り(強行採決)で議会承認したのに反発した野党が信任動議を提案した結果だったが、今回はプロセスが違っていた。

 07年大統領選挙では第一回投票で3番目につけたこともある、中道派大物古参政治家バイルは潔い性格の政治として評価は高かった。マリーヌ・ルペンが前々回の大統領選挙で立候補に必要な推薦人を集めるのに苦労していた時期には、政治的スタンスに対する評価はともかく、世論調査で高い支持率を誇る政治家であるルペンが立候補できないとしたらそれはデモクラシーではないと、自陣営の推薦人をルペン支持に回すことまで提案した政治家だ。

 少数与党政府の悲哀を一身に受けつつ、信任投票を得て政局を乗り切ろうとしたが、見事に失敗した。したがってこの信任投票はバイル首相の「狂気の賭け」とも言われた。政府不信任成立は63年以来62年ぶりのことだった。

国民にもくすぶる不満

 国民全体の政治不信は頂点に達している。ルコルニュ第一次政府閣僚の陣容も確定しておらず、所信表明もないうちに、すでに労組の呼びかけによる警告的な抗議運動が9月11日、18日、10月2日と全国規模で3回も行われていた。

政府と次期予算削減に反対する抗議行動(ロイター/アフロ)

 11日には「すべてを阻止しよう(Bloquons Tout)」というスローガンを掲げたグループが各地で抗議行動に参加、約20万人が街頭に出た。所信表明もされていないので論点は拡散しているが、この段階での国民の抗議活動そのものがマクロン体制に対する批判が相当強く潜在化していることを顕著にうかがわせている。2回目の抗議行動では50万人、3回目も18万人動員した。

 ルコルニュ第二次政府樹立の顛末は、国民に政府の指導力不足を露呈させたことになる。社会の政府不信は膨らみ、国民の街頭行動の増幅を促進させるだろう。


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