首都圏を中心に、私立中学校への進学を目指す「中学受験」が年々注目を集め、大手学習塾の調査では中学受験率は全国で18.9%だと公表された。
この数字から中学受験が過熱しているのかどうかは人によって評価が分かれるだろうし、私自身、一概に評価することはできない。もちろん、中学受験そのものを否定するつもりもない。受験は進路選択の一つであり、子どもと家庭の判断によって多様な意味を持つからだ。
ただし、少子化が進む今、私企業である塾や受験産業は業績を保つために「数字」を巧みに用い、〝バスに乗り遅れるな〟という空気を醸成しているように見えなくもない。
しかも、受験の過程が「合格するためのテクニック」に矮小化されてしまっている点には留意が必要である。
塾での詰め込みや暗記を重ねれば、一定の点数は取れるかもしれない。しかし、それは本来育てるべき思考力の土台を細らせてしまうという危うさを併せ持っている。
詰め込みによる暗記は、いわば〝死んだ知識〟の集積といえる。知識が頭の中で意味や経験と結びついていなければ、問題が少し変化しただけで応用が利かないからだ。例えば、子どもが九九を覚え、筆算の仕方を覚えても、式の与えられていない算数の文章題において、正しい途中式をつくることができない、というのはその典型である。
さらにやっかいなのは、入試問題そのものがこうした「暗記主義」を助長してしまっていることである。
本来、入試問題は子どもの「思考力」を問うことを目的としている。しかし、単に問題を高度にするだけでは、思考力の差を見ることはできない。
経済協力開発機構(OECD)が実施する国際的な学習到達度調査(PISA)は思考力を重視するテストとして知られるが、問題が複雑かつ西洋の哲学や理論に基づいているため、高得点を取るのはごく一部のトップ層に限られる。それ以外の多くの子どもたちの正答率は軒並み低く、結局、結果に差が出るのは記憶力や断片的な知識で解ける部分になってしまいがちだ。
思考力を測るというのは、言葉で言うほど単純な話ではない。だからこそ、受験に限らず、学校や家庭での指導においても、「教わった知識を覚えること」と「知識を使って考えること」の違いを明確に認識しなければならない。
人間の思考は、あらかじめ用意された情報をただ引き出すだけではない。限られた情報を手がかりに、自分の中で仮説を立て、意味をつくり、知識を構築していく営みである。
