父は「声を荒げたり、怒鳴ったり、目をつり上げて怒る姿を一度たりとも見たことがなかった」と断言している。伯父の身長は当時の平均よりも高く、165センチほどで痩せ型だった。誰かと揉めたり、言い争ったりする姿を、父は生涯で一度も目にしなかったと証言する。
旧制高等小学校を卒業後(現在の中学2年程度)、実家の農作業を手伝った。父が作業場の2階で見つけた分厚い辞典の数々は、彼が非常に勉強熱心であったことを示す。
その後、伯父は家計を助けたいと「借り子(かりこ)」に出る。これは、裕福な農家に1年間住み込みで働き、その賃金は親が受け取るという当時の制度である 。伯父はこの生活を3~4年間続け、その間も夜に勉強を欠かさなかった。
唯一、厳しく叱ったこと
それから、国鉄(現JR)の車両の連結作業員となるが、受け取った初任給の使い道が人柄を表している。
彼はまず、幼かった父にスキーを買い、妹(筆者の叔母)には小さな着物を買った。そして、残ったお金はすべて父親に渡した。自分のためではなく、まず家族を喜ばせる。家族想いであった。
父の母が涙ながらに語ってくれたエピソードもある。毎日農作業に明け暮れ荒れた手をそっと撫でながら、「おが(お母さん)、手が荒れてるなぁ」と優しく声をかけたという。
借り子を終えた伯父は、国鉄奥羽本線の「川部駅」に勤務した。釣りなど川での魚とりが好きで、自然の中で過ごす時間を楽しんでいた。駅での夜勤を終えて朝帰りすると、疲れているはずなのに、田んぼのあぜ道を歩いて帰ってくるなり、幼かった父を誘い、近くの川へ魚を取りに行ったそうだ。
優しく温和な伯父だが、「命」については厳しさを持っていた。父が小学生の頃、遊びに夢中になり、飼っていたうさぎの世話を怠ってしまい、うさぎが死んでしまった。その時、伯父は「お前に食べ物をあげなければどうなるのか?」と父を厳しく叱ったそうである。
普段、決して怒らない人がこの時だけ見せた「厳しさ」は、父にとって忘れられない出来事となった。それは、父の怠慢に対してだけではなく、「命が粗末に扱われた」ことに対する、彼の良心から出た叱責の言葉だった。生き物の命は絶対に軽んじてはならないという気持ちがにじみ出ている。
彼の「優しさ」は穏やかな性格からだけではなく、「命を尊ぶ」という揺るぎない信念から来るものだったのだろう。そして、この信念こそが、あとあと「命を奪う」戦争に参加するのをためらう気持ちがあったのだと筆者は想像している。
駅で2〜3年勤務した伯父は、父の叔母の家系に後継ぎがいなかったことから、19〜20歳の頃に婿養子として迎えられた。
この家の主は満州鉄道の助役を務めていた人で、定年時には満鉄の株を多く持ち帰り、弘前市内に大きな屋敷を建てていた。そこに伯父が婿養子として家に入った。
