筆者が農業に関わる仕事を続ける背景には、忘れられない一人の若者の存在がある。父の兄、筆者の伯父のタダオ(仮名)である。津軽の農村に生まれ育ち、21歳という若さで太平洋戦争の渦に呑まれて帰らぬ人となった。父(現在93歳)から「誠実で真面目だった」などと度々聞かされてきた。
当時21歳の若者がどうして命を落とさなくてはならなかったか、ずっと気になっていた。そこで太平洋戦争開戦から84年が経過した今、伯父の半生を取り上げ、命を奪う戦争と命をつなぐ農業について考えてみたい。
津軽の農村に生まれ、人を傷つけたくなかった人
伯父の故郷は、弘前市の弘前公園から北へ5キロほど離れた、のどかな農村部落だった。舗装もされていない土の農道を進んだ先にある、わずか21軒ほどの住民約230人が寄り添う小さな集落だったと聞く。
西には岩木山、遠い東には八甲田山を望む、見渡す限りリンゴ園と田んぼが続く広々として穏やかな環境の土地で、近くには岩木川が流れ、土手があった。筆者にも雄大な景色が印象に残っている。
伯父は、1923年8月31日生まれ。この津軽平野の風景が好きだったそうだ。
父の実家はリンゴ約6反(自作)と田んぼ約8反(小作)を合わせ、1町4反(1.5ヘクタール)以上を耕作していた。当時の農家は牛も馬もいないところが多く、父の実家も財力がなかったため、農作業はすべて手作業だった。鍬で田んぼや畑を起こし、起こした土を鉄の塊に柄を付けた、ハンマーのような道具で細かく砕いていた。
