二十歳以上も年の離れたこの中年画家との「初恋」を両親によって引き裂かれて別れたアルマは晩年の回想のなかで、あたかも沸き立つ熱湯に冷水を注いだように、その後のクリムトの歩みをシニカルなまなざしで振り返っている。
〈クリムトは初期の大規模な絵をけばけばしい安物で取り囲み、芸術家としての彼のヴィジョンは金のモザイクと装飾のなかに転落してしまった。彼の周囲にはつまらない女たちのほかはだれもいなかった。私なら彼を援けることもできたであろうと、彼はそう感じていたので、彼は私を求めたのだ〉(前掲書)
芸術界に新しい波を与えた「ウィーン分離派」
そのアルマがボヘミア生まれの新進の作曲家、グスタフ・マーラーと結婚したのは1902年、20歳の時である。ユダヤ人のマーラーはアルマを〈天使〉と崇めて、結婚に先立ちカトリックに改宗した。表向きはウィーン宮廷歌劇場の音楽監督という旧秩序の栄誉を手にするための選択だったが、ここにはハプスブルク帝国末期のウィーンに流入するユダヤ人たちに支えられた新しい文化と陰りゆく古い伝統社会との葛藤を認めなくてはなるまい。
当時、クリムトが手がけて一躍世間の高い評判を集めていた金色のまばゆい装飾やエロティックな女性の裸体画について、アルマは後年「けばけばしい安物」の「金のモザイクと装飾」とこき下ろし、初恋の情熱を傾けたこの画家をばっさりと切り捨てた。
しかし、クリムトは若い芸術家たちを率いて「分離派」(ゼツェッション)を旗揚げし、ウィーンの都市改造で環状道路にそって新しく出来た大学や劇場などの装飾画を次々と受注して、脚光を浴びるようになっていた。
ウィーン大学の大講堂を飾る天井画の「哲学」「医学」「法学」と題するシリーズの作品は、さまざまなポーズをとる裸体の女性がうねるような曲線と金色の装飾のなかに浮かび上がる。1901年の分離派展に出品されると、生命の誕生と性、エロス、そして死をめぐる大胆な造形をめぐって予想されたように激しい論争が繰り広げられ、大学の教授会は賛否の意見で完全に対立した。しかし、クリムトはこの〈スキャンダル〉を足がかりに時代の寵児となってゆく。
〈組合に所属する一群の芸術家たちが年来、彼らの芸術観を貫徹すべく努力してきたことをすでにご承知のことと存じます。その芸術観は下記の諸点の認識を肝要と考えるものであります。すなわち、ウィーン美術界を諸外国における芸術発展との活発な関連におくこと。展覧会のあり方をマーケット的な性格から解放し、純芸術的な基盤の上におくこと。このため純化された現代美術の諸見解を広いサークルに啓発すること。そして終局的には次元の高い芸術育成に社会層の関心を呼び覚ますこと、であります〉
1897年の「ウィーン分離派」結成にあたり、クリムトは宣言文にこう起草した。
家具・調度品のデザイナーのヨーゼフ・ホフマン、建築家のオットー・ワーグナーやヨーゼフ・オルブリヒといった、さまざまなジャンルの若手の芸術家がこの宣言の下に集まり、第一回分離派展に皇帝フランツ・ヨーゼフが来場して社会的に「認知」されたのである。
いまも街の中心部にある、金色の巨大な球形のドームを頂いた「分離派展示館」はオルブリヒの設計で分離派の発足の記念に建てられた。正面に「時代には時代の芸術を、芸術には芸術の自由を」という挑戦的な標語を掲げて、当時は「黄金のキャベツ頭」などと皮肉られながら、この特異な建築はいまやウィーン名所の一つに数えられる。
総工費6万グルデン(現在の邦貨換算で6億から10億円)のすべてが寄付で賄われたが、その過半を引き受けたのがユダヤ系の大鉄鋼産業の経営者、カール・ウィトゲンシュタインであった。この一族からは、のちに言語分析を通して世界的な哲学者として知られるようになるルードヴィヒ、第一次世界大戦に従軍して右手を負傷したため、モーリス・ラヴェルが「左手のためのピアノ協奏曲」を書いて贈った片手のピアニストのパウルなど、多才な芸術家たちを輩出している。
クリムトはその娘をモデルに「マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像」を描いた。「分離派」が代表する美術界の「新しい波」が、当時のユダヤ系の新興ブルジョワによって支えられていたことを示す、典型的な一例であろう。
