ウィーンで上演が始まった時、反ユダヤ系の新聞『ライヒスポスト』は「われわれにとって本来、高貴な喜びの館であるべきはずの劇場を、シュニッツラーは彼の『輪舞』をもって娼家に、そしていかなる淫売婦の巣窟においてもこれ以上破廉恥でありえないほどの行為と対話の現場に貶めた」と激しく批判した。
次第に影をひそめ、湖畔で過ごした晩年
クリムトは1908年のウィーン総合芸術展(クンストシャウ)に16点を出品、代表作となる『接吻』が国立オーストリア美術館の買い上げとなるなど、全盛期を迎えたが、これを境にあの「黄金の時代」は次第に影をひそめた。
同じころ、リンツからウィーンへやってきた17歳の少年が、環状道路の壮麗な建築群に心を奪われていた。税官吏の息子で、画家を志して美術学校を繰り返し受験し落第するアドルフ・ヒトラーである。
〈私をひきつけたのは、いつも建物ばかりだった。こうして何時間もオペラ劇場の前に立ち、何時間も議事堂に目を見張っていた。環状道路がすべて千夜一夜物語のように、私に働きかけた〉(『わが闘争』平野一郎他訳)
黄金のドームを頂いた「分離派展示館」やオットー・ワーグナーの地下鉄カールスプラッツ駅などのまばゆい装飾も当然、彼の目に映っていたのであろう。〈ユダヤ的なもの〉の象徴のような分離派の意匠の輝きは、挫折した画家志望の貧しい少年に激しい反感を育てたのかもしれない。
クリムトはこのころからウィーンから離れたアッター湖の別荘に滞在し、もっぱら群生するリンゴの木や生い茂る街路樹などの風景を点描のような筆触で描くようになった。奥行きのない静謐な画面には、あれほど描いてきた金色に輝く女性の姿はもちろん、人の気配はまったくない。
〈朝はたいてい6時頃に起きます。天気がよければ近くの森に出かけ、太陽の下で針葉樹が少し混ざるブナの林を描きます。そうやって8時まで過ごしたら、朝食をとり、そののち細心の注意を払いながら水浴します。そしてまた少し絵を描きますが、太陽が出ていれば湖畔の絵を、曇りの時は私の部屋の窓から眺めた風景を描きます。でも時々この午前中の制作を中止し、屋外で日本についての書物を広げ勉強することもあります‥‥〉
そのころ、かつてモデルを務めたマリー・“ミッツィ”・ツィンマーマンにあてた手紙で、画家は湖畔の暮らしをこのように綴っている。
アッター湖畔の晩年の日々に画家は幼なじみで服飾デザイナーだったエミーリエ・フレーゲを伴い、1918年に脳溢血のため55歳で逝く時には病床で「エミーリエを呼んでくれ」と叫んだと伝えられる。
画家には没後、14人の女性から子供への遺産相続請求があったという。
一方、かつて美術学校の受験に落第してウィーンの環状道路の輝きに失意を慰めた画家志望の少年、アドルフ・ヒトラーは軍役からナチスの総統にのぼり詰め、クリムトが没して20年後の1938年、オーストリアの併合で怨念を刻んだウィーンの街をオープンカーで凱旋する。
