ニンビンのホアルー古都街のアートな土産物屋
11月27日。ホアルー古都街を散策していた時に、お洒落な趣の土産物屋の店先で、女性がテーブルに香水瓶を並べて写真撮影していた。店内には現代的デザインのポスター、絵画、プリント、ペンダント、メダル、香水、お皿、コーヒーカップなどが並んでいた。
店番の女性、ミューは25歳。高校卒業後に親の希望もあり、医療系大学の薬学部に進学した。薬剤師となるべく漠然と学んでいたが心機一転中退して、子どもの頃から好きだった絵画や写真を学ぶ専門学校に移ったとのこと。
古都街の店の他にニンビン市内にも姉妹店があるという。2店舗のオーナーは、若く才能のある芸術家を発掘して、彼らの生活を支援するために彼らの作品を2店舗で販売するだけでなく、市内外で展示会を開催しているという。オーナー氏は32歳だがかなりのやり手のようだ。
土産物屋で手頃な価格で売っているポスター、プリント柄の暖簾、ペンダント、Tシャツなどは、それぞれの芸術家に商品として生産・販売できるように、オーナーがアドバイスして製品化したものという。直営の2店舗以外に提携先の土産物店にも、製品を卸しているとのこと。そしてミュー自身も外国人観光客との接客を通して得た知見をベースに、アイデアを出して製品化に参画しているという。
地域の芸術家育成とビジネスを融合する起業家の出現もドイモイの成果であろう。
断トツに繁盛している家族経営のレストラン
11月27日。午後3時過ぎに生ビールを飲もうとタム・コックのメインストリートで店を探していた。ハッピーアワーは4時または5時から数時間という店が多い。タム・コックの町ではハッピーアワーの生ビールは、ハノイ・ビールが定番であり、値段もジョッキ1杯日本円換算で約70円でありどの店も変わらない。
6軒のうち五軒のレストランは、時間が早いのでほとんど客がいなかった。ところが、不思議なことに1軒だけ観光客で賑わっていた。通りかかると青年がタイミングよく声を掛けてきた。店の前の立看板には、ハッピーアワーと書いてあるだけで時間が記載されていない。聞くと「当店は何時でもハッピーアワーです」と即答。
生ビールをチビチビしていると次第に混んできた。他の店は相変わらず客がほとんど入っていない。店の前でカモの串焼きを炭火で焼いているので、香ばしい匂いに誘われてビール&串焼きを楽しむ客が多い。そして彼らはビールを数杯飲んでから本格的に料理を注文している。客と店側のやり取りを見ているとリピーターが多い。
店の居心地が良い。というのは従業員が非常にフレンドリーで、常に客に視線を向けてジャスト・イン・タイムにサービスを提供しているからだ。例えば、ジョッキが空になりそうになると、タイミング良く近づいてきて「お代わりいかがですか」とさりげなく尋ねる。筆者の経験では飲食店における“このような気配り”は、我らがニッポン以外では極めて稀なことである。
壁に“●●ファミリーのレストラン”と書かれている。どうも奥の帳場にいる年輩女性が大女将で、調理場の責任者が息子のようだ。フロアを仕切っているのが若女将らしい。そして大女将の孫世代のような男女若者が7~8人働いている。
大女将・息子が家族経営の中心であり、家族・親族が役割分担しており、同時に全員が密に連携している。例えば、筆者からビールのお代わりの注文を受けたフロアの青年は、ビールサーバー担当者にサインを送り、ジョッキに生ビールが満杯になると飲み物・料理を運ぶ少女がジョッキを筆者のテーブルに運んでくるという連携プレーである。
夕刻6時~8時のゴールデンタイムでも、他の似たようなレストランは6割から7割の客入りであるが、●●ファミリーレストランは満席であり、常に数組のゲストが店先のベンチでビールやジュースを飲みながら順番待ちしている。ドイモイ(市場経済)を“顧客第一”に実践している家族経営レストランの独り勝ちは揺るぎないだろう。
ニャチャンのホステルのオーナーの配給制時代の苦い思い出
12月8日。ホステルのオーナーはニャチャン生まれの49歳。ベトナム戦争が停戦になった時は2歳だったので、オーナーは“戦争を知らない世代”であると自己紹介した。1986年にドイモイ政策が採用され1996年からドイモイは加速した。
ドイモイ経済が本格化する以前のオーナーの子ども時代は、毎日停電がありロウソクやランプの灯りで一家が夕食を囲むことがフツウだったという。お米などほとんどの食糧や石鹸やロウソクという、生活物資が配給制だったことを覚えているという。学校が終わると母親から渡された配給切符を持って配給所の長い列に延々と並んだとのこと。
1990年頃までは日常の食事はご飯と野菜炒めとスープの一汁一菜だったようだ。オーナーの口ぶりからは、当時の生活は口にするのも忌まわしいという感情が伝わって来た。実直なオーナーは、毎日肉や魚が食べられる現在のような生活は、当時では夢のまた夢であったと述懐した。
以上 次回に続く
