「変な京都中華思想」が創る新たな世界
京都には、独特の「中華思想」がある。それは排他的な意味ではなく、「自分たちが世界の中心であり、ここから新しい基準を作る」という強烈な自負だ。
伝統を墨守するのではなく、伝統という強固なプラットフォームの上で、最新のテクノロジーや異分野の知を融合させる。太田氏が弘道館で試みているのは、まさに「京都」をOSとした知の再起動だ。千年前の知恵と現代のウェブ情報学が交差する瞬間に、京都は再び世界の中心へと躍り出る。
私のガン克服も、この「手前勝手な」レジリエンスの産物かもしれない。「自分はまだ終わらない」「京都の春が私を呼んでいる」という、根拠のない、しかし確固たる自己中心的な確信。この「京都中華思想」的な発想――すなわち、外部の評価ではなく己の内なる美学に従う姿勢こそが、ステージ4という過酷な現実を、ただの「通過点」へと書き換えたのだ。
知的冒険者たちへ
人生は、不確実性に満ちた資源戦争のようなものだ。病、経済の変動、老い。我々を脅かす要因は枚挙にいとまがない。
しかし、京都の街と太田氏のような知性が教えてくれるのは、それら全てを「マルチタスクな好奇心」で飲み込み、自らの糧に変えてしまう強かさだ。一つの専門性に安住せず、常に未踏の領域へ知の触手を伸ばし続けること。
山師として、ガンファイターとして、私はこれからも京都の風に吹かれながら、世界を、そして自分自身を更新し続ける。今夜、上七軒の灯りの下で、「ワインにするか、日本酒にするか」と真剣に悩むその瞬間。そこには、病さえも一つの「経験」として熟成させてしまう、大人のレジリエンスが満ちている。
