2026年5月4日(月)

偉人の愛した一室

2026年5月4日

関西で最も長く住み
最愛の人と過ごした場所

 阪神間の高級住宅地、地名でいえば芦屋、住吉、御影といった一帯は、江戸時代には清酒の産地として名を知られていた。灘の〝下り酒〟である。明治に入って鉄道の開業とともに実業家らが移り住み、さらに大正から戦前にかけて、外国の影響を強く受けながら、大正モダニズムとも融合した独自の文化が花開いた。日本一裕福、かつハイカラな場所だったのだ。

 谷崎はこの地で13回にわたり引っ越しを繰り返す。その中で、借家ながら一番長く住み、3度目の妻松子にその姉妹たちを交え、充実した日々を過ごしたのがこの旧宅であり、この家を舞台に使って書かれたのが代表作『細雪』だった。

 富裕な旧家に生まれた4人姉妹の人生を描くこの小説は、季節ごとにお花見や蛍狩り、紅葉狩りへと一家で繰り出す様を美しい文章で描き出し、姉妹が日本舞踊やピアノの稽古に熱を上げ、折々、神戸の名のある料理店で食事会を催す、そんな優雅な暮らしを丁寧に追いかけ、結婚や人生をめぐる4人の悩みと選択とを流麗な筆致で綴ってゆく。

『細雪』で季節の移ろいや風情を伝えた庭は、移築時、作中に出てくる植物を植樹することで再現された
洋間の外にはテラスが設けられており、そこから庭を眺めることができる

 日本文化の細やかさを描く点で「源氏物語」に比肩し、また時代を鮮やかに映す風俗小説としての魅力も十分である。その奢侈な生活の描写から、雑誌連載2回目にして軍部から発禁処分を受ける。戦中の43(昭和18)年のことであれば、さもありなんか。

 さて、住吉川の遊歩道沿いに建つ旧宅は、門や植栽を含めた外観は純和風である。だが、一歩中に入ると、中廊下を挟んだ南側にはモダンな空間が広がる。手前の10畳ほどは板敷、マントルピースが備わり、開放感ある高窓から陽光が注ぐ堂々たる洋間であり、ソファやテーブルが置かれ、客間としても使われた。その奥に続くのが4畳ほどの食堂で、この二間は小説の中にもしばしば登場している。

『細雪』には食堂と応接間の扉を取り払い、食堂を舞台、応接間を客席に見立てていたという描写がある

 1階の北側は女中部屋と水回りとなり、中廊下の突き当りには、4畳半に床の間、板の間、縁側のつく和室が設けられている。落ち着いた佇まいもそのはず、離れを増築するまでそこが谷崎の書斎となっていた。床よりも広くとった床脇に掃き出し窓を切って障子を入れ、光と風を取り込む工夫をしているのが面白い。

決して広くないスペースだが狭さを感じさせない工夫が天井や収納に凝らされている
台所の横には谷崎が使っていた薪などで焚く五右衛門風呂がそのままのこっている

 2階には8畳、6畳、4畳半の和室三間があり、小説では次女夫妻の居室として、また、結婚前の三女、四女が使う部屋として登場する。1階も含めて、小説の場面がそれぞれの部屋に掲出されているのだが、移築整備に際して、庭やテラスまで当時の風情を再現するよう努めたとされ、小説内の描写と併せてみると、ここでの谷崎の暮らし、その目に映った景色が想像されて興味深い。

2面に窓があり最もあかるい2階の東の部屋は『細雪』では幸子夫妻が住んでいた
谷崎が住んでいたころは夫婦の寝室として使われていた
2階西側の4畳半には谷崎の最後の家「湘碧山房(しょうへきさんぼう)」で使っていた文机のレプリカがある

 『細雪』には、大阪の本家を継いだ長女と、分家として阪神間に住んだ次女との暮らしぶりの違いが描かれ、台頭する勢力と没落する勢力が鮮やかに対比されるのが、読みどころの一つとなっている。だが、私には三女雪子の人物像、意思表示が曖昧ではっきりしないくせに、内心では揺るぎなく是非を判断している、その描かれ方が実に面白かった。

作中では孫の悦子の部屋となっている2階の6畳間には谷崎の作品や自筆の手紙の影印などが展示されている

 そこには関西の旧家に生まれ育った女性特有の柔らかさ、たおやかさが感じられ(それはすなわち松子夫人なのだが)、そこにフェティッシュな思いを抱いたことが、谷崎がこの地を離れようとしなかった理由の一つではないかと思われる。純和風の中に隠された洋間のようなものかな、旧宅を辞す間際、ふと、そんなことを思った。

西の部屋は『細雪』で雪子が妙子に爪をきってもらう印象的な描写の舞台だ
 
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Wedge 2026年5月号より
造船立国ニッポンへ 「復活の号砲」を鳴らせ
造船立国ニッポンへ 「復活の号砲」を鳴らせ

かつて日本は世界一の建造量を誇ったが、現在、韓国、中国に大きく後れをとっている。 日本政府はここに来て、造船のテコ入れ開始を決めたが、その道のりは険しい。 島国である日本にとって、「海上輸送」がなければ企業活動も、生活も成り立たない。 日本の造船業が抱える課題や造船大国へと変貌した中国の実態と対抗策を示すと共に、 造船業は国家の「生命線」であることを改めて問い直す。


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