2026年1月11日(日)

偉人の愛した一室

2026年1月11日

 根津嘉一郎の名でまず思い浮かぶのは東武鉄道と根津美術館であろうか。片や「鉄道王」として、一方は著名な茶人、古美術蒐集家として、根津の二つの顔を象徴するものだ。

中央線山梨市駅から南西方向へ車で5分ほど走ると立派な門に迎えられる。正面16間、側面3間もある長屋門は、昭和初期の社会情勢を反映した豪華な造りになっている。門をくぐると約6700平方㍍の壮大な敷地が広がる(WEDGE以下同)

 鉄道事業家としての根津に大きな影響を与えたのは「甲州財閥」と称された事業家・資本家たちの存在である。その中心だった若尾逸平は、横浜開港後の生糸貿易で巨利を得ると、将来性を見込んで「鉄道」と「電力」に資金を投じ、首都東京の鉄道網の整備を牽引する。これに倣うように、現在の中央線にあたる甲武鉄道を敷設し、笹子トンネル開削などの困難を乗り越えて甲府までの延伸を果たした雨宮敬次郎、関西の鉄道事業の中心となって観光業との連動をなしとげた阪急電鉄の小林一三、さらには東京に初めて地下鉄を走らせた早川徳次など、いずれも甲州山梨県の出身だった。

 根津も含めたメンバーたちはゆるやかに連携しつつ、明治から昭和初期にかけて、鉄道、電気、ガスといった社会インフラの整備に力を注いでゆく。1896(明治29)年には東京電燈(現・東京電力)の株数の4割を握り、電力事業の発展を通じて社会に大きな足跡を残してゆく。

 現在の山梨市で商業も営む大地主の次男に生まれた根津は、若尾との出会いによって投資家としての道を歩み始めた。その後、投資ではなく、事業による利益追求を勧める雨宮の忠告に従い、企業経営に乗り出す。傾いた会社を次々と買収してこれを立て直し、次第に実業界での地位を高めた根津は、1905(明治38)年に東武鉄道の社長に就任する。

 当時の東武はローカル鉄道に過ぎず、しかも赤字続きであった。根津は経費の節減を徹底させるとともに、利根川の架橋工事や鉄道会社の合併を進め、東京と北関東を結ぶ鉄道網を作り上げる。その傍らで、一大観光地である日光への観光客誘導に力を注ぐなど、東武鉄道を日本有数の私鉄に成長させた。他にも、南海鉄道、京浜地下鉄道など多くの鉄道会社の経営に参画してゆき、その範囲は全国に及ぶ。「鉄道王」と呼ばれる所以だった。


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