2026年1月12日(月)

偉人の愛した一室

2026年1月11日

復元された
郷土愛に満ちた空間

 秋の一日、新宿から中央線特急に乗って甲斐路を走る。高尾から先、山々は錦秋に照り輝いている。

 根津嘉一郎の生家は旧青梅街道に面している。県で2番目の大地主だったという根津家、その威勢を伝える長屋門の前で記念館の武井文明さんに出迎えられる。

 根津は70歳を過ぎた32(昭和7)年から、甥の啓吉による生家の新造に関与する。3年の歳月をかけ、主屋や蔵の数々が建てられ、根津の手で大磯にあった別邸が移築される。現在「青山荘」と名付けられた建物と庭は、当代を代表する「数寄者」だった根津が、茶の湯仲間やビジネス相手をもてなす迎賓館として設けられたのだ。 

青山荘は当時の基礎の痕跡と残された図面をもとに復元されている
庭越しに眺める青山荘も正面とはまた表情が違って趣深い

 武井さんによれば、戦後、主屋一帯は残されたものの、いつの頃か迎賓施設は失われ、庭園もろともブドウ畑になっていたという。屋敷全体の寄付を受けた山梨市により建物と庭が忠実に再現され、主屋も含めて記念館として公開されるに至った。今回は紹介できないが、大地主の豪壮な主屋もぜひ見学されたい。

  復元された青山荘の玄関を入る。応接用の洋間を過ぎた先が賓客を迎える空間となる。10畳の次の間がついた「客の間」は、12畳半に炉が切ってある。幅1間半の床、床脇は天袋、地袋のみで、全体に簡素な書院造りとなっている。 この二間に沿う畳廊下を進んだ奥が、3畳の水屋を備えた茶室「燕子花」である。

「燕子花」という名に、東京・青山にある根津美術館の庭園に咲き誇るかきつばたに思いを馳せる
当時の図面をもとに復元された「燕子花」は近代数奇者である根津好みの、茶の道にとらわれない造りだ
茶室の「燕子花」や「青山荘」といった名称は根津記念館として開館した際に名付けられたものだ

 4畳半の中央に半畳を置いて炉を切っている。床が2つ付き、一方は黒漆の床窓を設ける豪華な設えとなっている。特徴的なのは、庭に面して障子戸を立て、躙り口とは別に、沓脱ぎ石を置いて庭へと自在に出入りできるようにしていることだ。

 「笛吹川」と名付けられた広い庭は、芝生の中に踏み石が配され、散策を楽しむことができる。左手奥に一本、大きな黒松が悠然たる姿で立っている。これも別邸から移されてきたことから「大磯の松」と呼ばれ、太い幹に乗せて見事な枝ぶりを広げている。その手前には湧水が清流となって流れ、これに沿って大ぶりの丸石が配される。甲州を代表する川、笛吹川から運ばれてきた石である。

庭園でひときわ存在感のある「大磯の松」。晴れた日には松の奥に富士山を借景として見ることができる

 ふと、庭を囲む白壁の外に目を転じると、視線の先に御坂山系が連なり、その奥に白雪を冠した富士が姿を見せていた。

 ああ、この景色、甲州の名山を借景にした美しい庭園こそ、根津が用意した格別のもてなしではなかったか。客間に特別な設えを施さなかったのも、この庭を楽しんでほしかったから、そんな想像すら湧く。数寄者としての根津は庭造りにこだわりを持つことで知られ、「根津美術館」の庭園も、かつてこの欄でも紹介した熱海「起雲閣」の名園も、もとは彼の自邸の庭園だった。

展示棟「八蔵」には根津が寄付したピアノも飾られている。寄付されたピアノは「根津ピアノ」と呼ばれ、今でも地元の人たちに親しまれている

 晩年の根津は社会貢献活動に目覚め、教育事業に多大な貢献を行っている。私立の名門武蔵学園は彼によって創設された。山梨県下の小学校すべてにピアノを寄贈したことは地元では知られたことだが、他にも県下の学校への寄付を惜しまなかった。郷土愛が深かったことがこの偉人のもう一つの顔かもしれない。

国登録有形文化財にも指定されている旧主屋。ボイラー設備や屋内消火栓、電気配線の埋め込みなど、当時の先端的な技術がふんだんに使われている
旧主屋の長く続く廊下からは中庭をみることができる
入母屋造の2階建ての旧主屋の主体部は1、2階ともに座敷3室が1列に並んでいる
旧主屋の2階には根津が東武鉄道初代社長時代に実際に使用していた机と椅子が展示されている
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Wedge 2026年1月号より
下水道からの警告 地下空間の声を聞け
下水道からの警告 地下空間の声を聞け

埼玉県八潮市で起きた道路陥没事故から間もなく1年。各地で下水道の老朽化が問題になっている。しかし、都市と地方では下水道が整備された年代は異なっており、老朽化に悩む自治体もあれば、縮退を決めた自治体もあるなど、問題は様々だ。下水道をはじめとしたインフラは私たちの日常を支える「基盤」であり、「機能」である。目に見えない地下の世界の声を聞き、私たちが直視すべき課題と解決の糸口を提示する。


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